2022年3月.27日 常盤台教会礼拝
「キリストは道であり、真理であり、命です」
ヨハネ14:1-11
コロナの感染拡大も、この2年間で収束するのではないかと思われていた昨今、ウクライナ侵攻が勃発し、何とも次から次へと不安な世界へと引っ張られている毎日ですが、皆さまお元気でおすごしでしょうか。過去にもベトナム戦争とか、イラク戦争などがありましたが、社会主義国家のロシアが隣国に侵攻し、核兵器の使用をほのめかすとなれば、世界の歴史も新しい局面を迎えたと言わざるをえません。
この困惑の中で、正しく言えば、私たちの信仰の生き方にもチャレンジを受けているのです。幸いなことは、世界中の一般市民の中に平和を愛する多くの人々がいて、その中にはクリスチャンもいるでしょうし、他の宗教の方もいるでしょう。あのロシアもウクライナも昔から同じロシア正教会の仲間でした。しかしながら、今回のロシア侵攻で、お互いの正教会が戦争にならないようにできなかったのか。私たちが気を付けなくてはならないことは、自分たちの立場を絶対化すると、他の人々の信仰を認めず非寛容的な態度に陥ります。それは神様のみ旨に反し、悲劇を生み出すことを忘れてはなりません。
キリスト教の福音の中心は、イエス様の教えの「良きサマリヤ人」の中にありますように、宗教的、民族的な理由で軽蔑されていたサマリヤ人が、その敵対しているユダヤ人を助けて愛したように、私たちと違う立場にある者でも、同じ兄弟姉妹として互いに受け入れ合うと言うこと。自分たちと違いがある者と少しでも壁を作りますと、その壁が次第に高くなり孤立、誤解、偏見が生じてきます。そのためには対話による、寛容ある交わりの関係を築いて、お互いの存在を認め合うことが必要でありましょう。これがキリストにある教会の働きです。宗教が分裂対立していては、この地球上で世界平和は成り立たないでしょう。
さて、今日の礼拝の最初に、旧約聖書のダニエル書12章を読んで頂きましたが、この箇所はダニエルがバビロニア帝国の奴隷として外国の地に連行され、礼拝堂もなく、信仰を個人で守り続けた人生の中で、次々と国家間の争いが起きて、世の中が混沌として行く。その行方を案じ、ダニエルが神に尋ねている個所です。「神様よ、これらの驚くべきことはいつまで続くのでしょうか」。ダニエルは歴史の最後は神の国が打ち立てられると信じていましたので、神に問うたのです。その返事は、2つありまして、その1つは「一時期、二時期、そして半時期たつと、聖なる民の力がまったく打ち砕かれると、これらのことはすべて成就する」という返事でした。これはダニエルにとってまったく理解できませんでした。何故なら、聖なる民が打ち砕かれてしまったら、何の希望もありません。この一時期、二時期、半時期とは合計すると三時期半です。七が神の完全数なので、三時期半とは、サタンが猛威を振うことが許された期間があるという意味です。確かに、どのような戦争も、多くの悲劇をもたらすけれど決して長くは続かない、必ず最後に終わりがある。そこでダニエルは、「これらの終わりはどうなるのでしょうか」と再び尋ねました。その答えは、今はその内容は封じられているけれど、ただ「多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る」と言う返事でした。この最後のステージになると悟る者は更に悟り、悟らない者は悟らないまま終わるということは、信仰を持つものは更に持ち、信仰を捨てる者は更に捨て、峻別されるという意味でありましょう。
そして二番目の御告げは、礼拝さえできない状態が来る。それを乗り越え得るには千二百九十日かかる、これを365日で割ると、約3年半です。1番目の御告げと内容は同じです。最後に出てくる千三百三十五日とはその3時期半から45日経った後に、神の国が始まるという意味になります。このダニエル書は、黙示文学の形式で書かれていますので、無理に日数をこじつけて解釈する必要は全くありません。ただ問題は、サタンが振る舞う期間が定められていて、場合によっては私たちの礼拝が出来ない状態まで追い詰められる。しかし、それは終わりではない。それを通り過ぎて45日目に達する人は幸いだと言うのです。そこで天の使いはダニエルに、「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう」と告げたのでした。ここの箇所は、最新の聖書協会新共同訳ですと「あなたは終わりまで、自分の道を行け。そして憩いに入れ。あなたは終わりの日に、あなたの受ける分を得て立つであろう。」となっており、新約聖書でしたら、あなたは、「死に至るまで最後まで信仰に忠実であれ」、ということになるでしょう。私たちは、どんなに困難な時があっても途中で信仰を捨てることなく、約束の憩いの天の国に入るのです。バプテスマを受けられた方は、これをしっかりと覚えてください。
旧約聖書とは常に新約聖書のイエス・キリストの救いの成就のための預言書ですので、実はダニエル書の預言は、私たちの信じるイエス・キリストによって既に救いの道が成就したと私たちは信じます。そしてダニエルに封じられた内容は、この世の終わりに、神から遣わされた神の子がこの世に来られ、救いの道を完成するために、十字架の道を選び、全人類のためにご自身の命を全人類の罪の贖いのために捧げるということなのです。
何百年経っても、何人の預言者が出ても、人々の罪はなくならない。逆に罪は巧妙に私たちの心の底に隠されているのが悪の系譜、罪の系譜です。それを人類の原罪の系譜と呼んでいます。作家の三浦綾子さんが小説の中で表現した氷点。冷たくてネガティブな心。しかしイエス様が一生懸命、神の道を説き、人々の病をいやし、虐げられている人を助けて、神の愛を説きましたが、人々は、自分の内にある罪を認めようとしない。律法学者や祭司長たちさえも、逆に嫉妬の心が燃え上がり、このイエスを死刑へと追いやりました。「イエスを殺せ、極悪人のバラバを釈放せよ」。これほどサタンが神の正義を打ち負かせた瞬間はないでしょう。イエス様は、この人間の狂気を、罪の性(さが)とも言うべき人類の原罪を、ひとりで背負いながら、屠り場に屠られる子羊のように沈黙を守り、その重い十字架を引きずりながら、ゴルゴタの丘まで歩まれました。手と足に太い釘を打たれ、十字架にはりつけされ、最後に天の父なる神に叫びました。「おお、神よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちが何をしているのか判らないでいるのです」。神に向かって執り成しの祈りを捧げました。自分たちが間違ったことをしていることが判らない。そしてイエス様を正しく理解していない私たちのために。ここでイエス様は最後で決定的な、全人類の罪を贖うために自ら犠牲の供え物となってくださったのです。命を絞り切って完結した時、罪の系譜である闇に光が差し込み、その光はイエス様に逆らう者たちさえも愛するという形で、闇に勝利したのです。「神の愛はすべての咎を覆う」。肉体の死は本当の終わりではありません。罪を贖われたイエス様の体は、神の命によって復活の体として甦ったように、永遠に生きる神の命に至る、完全なる救いの道を準備してくださったのです。
それゆえに死はもはや決して怖いものではない。死は魂の滅びでもなく、滅びたのは肉の体であり、私たちは復活の体となって、永遠に生き続け道が備わったのです。死に至るまで信仰に忠実であることは、私たちの最後は、永遠の命へのゴールであり、死は、天の国への出発点となったのです。フィリポ書には「イエスは死に至るまで忠実であられた」。とあり、そして黙示録には「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠をあてよう」と書かれています。今、日本人の平均寿命は女性が87歳ぐらい、男性は82歳ぐらいでしょうか。最近は65歳定年ですと、男性はそれから15年ぐらい、女性は20年ぐらいしか余生はありません。人生の最後を漠然と生きるのではなく、最後まで信仰を全うする信仰が大事です。
また若い人も、早く信仰を持つこと。そうすれば人生の土台を築き、残りの人生が祝福されるでしょう。私の神学生時代の友人は50歳代で、癌で天に召された方が二人おられます。イエス様は33歳で天に昇られました。たとえ人生が短くても、長くても、私たち一人一人がイエス・キリストの救いによって、恐ろしい原罪から救われ、神の霊によって新しく生まれ変わる人となることが大事なのです。そのためには、今日、あなたが、福音を耳にした時、その日が救いの日、恵みの時です。イエス様を私たちの救い主であることを信じる決断をしましょう。
イエス様はおもしろいたとえ話をされました。サタンはサタンを打ち負かすことはない。そうすればサタンの家は成り立たない。しかし、一番強いサタンを打ち負かせば、その人がサタンを支配し、縛り上げることができる。たとえ、私たちがサタンの影響下にあっても、イエス様が最終的に、このサタンと呼ばれる悪の親分、罪の元である原罪の系譜を打ち負かしたなら、そのサタンの支配下にあった私たちは、今やイエス・キリストの救いの支配下に置かれるということです。もはやサタンはイエス・キリストの支配下にある者には手を出せない。そこで私たちはイエス様とサタンの間を行き来するのを止め、私たちはイエス様の救によってまったく神の国の支配下におかれたので、今度は新しい道を歩まなければならないのです。その新しい道とはイエス様と共に。それは天国に登るはしごなのです。天の父のところへ昇るはしごがという道が、ここで言う、私は道であるという道なのです。つまり、この地上で私たちはイエス様と共に天と地とを上り下りする生活が始まるのです。これはヤコブが夢で見た天へのはしごを指していて、イエス様は、ヨハネ福音書1章で、ナタナエルに向かい、驚いてはいけない、「あなたがたは天が開け、神の天使たちが、人の子の上に昇り降りするのをみるでしょう」。つまりイエス様と共に、この地で天の神の国を経験し、信仰では天にいながらこの地上の生活を経験するという非常にユニークな生活こそ、私たちのクリスチャン生活なのです。
本日の聖書の箇所であるヨハネ福音書14章ではこのように書かれております。イエス様が、突然、弟子たちにこれから私を見なくなる。どこかに行くと言い出したものですから、弟子たちにはその意味がまったくわかりませんでした。そこで「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私を信じなさい。私の父の家には、住む所がたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くのだから」。「用意したなら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
それを聞いた弟子のトマスは、「主よ、どこに行かれるのか、わたしにはわかりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」その時、イエス様は答えられました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」。実は、このイエス様こそ、その天の国に行く道そのもので、誰もこのイエス様を通さなければ、天の父なる神のところに行けない」と述べられたのです。今度はフィリポが質問しました。それでは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足します」。イエス様は「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、わたしたちに御父をお示しくださいと言うのか」。ここでお弟子さんたちはお驚きました。イエス様は、天の父からこの世へ遣わされた神の子イエスであり、天に昇られると、父なる神と一緒であられる方。これをイエスは初めから父の内にあり、その父の内にイエスが共にあった。そしてイエスと共にある者は、父と子の内にあるとヨハネの手紙に書かれています。つまり、私たちがイエス様と共にあることが、私たちもイエスと共にあり、イエスの命によって、この地で天を経験し、天ではこの地上の生活を体験する恵みを述べていて、私たちは、この世で生を持ちながら神の恵みの体験し、そして死に至るまで信仰に忠実であることは、最後に、天における祝福の御国へとゴールする。つまり永遠に神と共住むことを聖書は約束してくださっているのです。この世では災いがあるのです。でもこの世はいつか滅び過ぎ去ります。永遠に変わらない神の国を目指して、私たちは歩もうではありませんか。