2023.12.31「一日、一年、一生の計」 エフェソ1:3-10
参照箇所:コヘレト12:1-2、黙示録22:12-14
2023年最後の日、大みそかに神様の御前に礼拝の時を与えられたことを心から感謝します。礼拝のメッセージの題を「一日、一年、一生の計」としました。
人生は初めと終わりがあり、それが一生の計です。そして一生の計とは、一年、一年を積み重ねた総計であり、その一年は四季を通じての一日一日の総計です。
こう考えますと、一生の計は、現在の一日一日をどのように過ごすのかによって、測られていると言って良いでしょう。
聖書の中で、イエス・キリストは「明日のことを思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。「まず、今日というこの日に、神の国と神の義とを求めなさい」と語りました。「その日の苦労は、その日だけで十分である」。と言われたのです。朝、起きて、聖書を開き、み言葉を読み、祈りの時を過ごしてから一日を始める。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書かれているように先ずみ神の言葉を刻むこと。余裕がなければ、み言葉カレンダーには一日一句のみ言葉が毎日載っていますので、一言でも目を通し学ぶのも良いでしょう。
私は人生の成功の秘訣という本を読んだことがあります。その日にしなくてはならないものは決して多くはありません。今日、何をすべきか、10ぐらい挙げてみて、そのうちの3つ達成できれば、あなたは成功者になる。と書かれていました。でもその日に、その大切な3つを成し遂げても一週間ぐらいたつと、続けることはなかなか難しい。私たちは自分の努力だけではどうしても続かないものです。
しかし、キリストを主と信じるクリスチャンは、自分の力ではなく、み言葉から来る神様の力によって絶えず、新しい命の水を頂くことができるのです。昨日の古きものは過ぎ去り、新しい命を神様から今日、頂くことによって、過去にではなく、将来へ希望の心を満して生きることができるでしょう。あるクリスチャンがこう証ししていました。朝、起きたとき、まず大きく息を吐いて、昨日はありがとうございました。古いものを吐き出してから、その後に、大きな息を吸って新しい神様の命を頂いて感謝する。これを毎朝、朝の挨拶として一日を始めますと、充実した日を過ごすことができると証していました。
長い間、コロナ感染によって自粛生活が続きました。こうしてようやく回復し、キリストを主と信じる私たちには、異常気候、インフレ、戦争の恐怖などがありますが、それらの危機を乗り越えて行く力を神様から頂いて参りたいと思うのです。
エフェソ書1章には「天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、私たちがたたえるためです」とあります。私たちの信仰は、神様との人格的な交わりがあり、一つ一つの神のみ言葉には祝福の人生の導きがあります。信仰とは、その神様の御顔を仰ぎ見つつ歩むことです。神の御業をほめたたえ、神の身分にあずかる、神の恵みへの招きなのです。
私はこの9月に岐阜で開催された第7回日本伝道会議というキリスト教プロテスタントの集会に出席しました。7年に一度の大会で、4日間にわたり全国の教会から千名近い人々が集まり、コロナ後のビジョンについて話し合いました。その大会のスローガンは「終わりからの始まり」というスローガンでして、コロナ感染の収束は、新しい伝道の始まりであることを皆さんと学びました。
こう考えますと、「一日、一年、一生の計」とは、過去を振り返り、一度、総決算をして、感謝し、更に新しい一年を目指すという大事な、「終わりからの始まり」があることに気づくでしょう。
命とは今、生きている力ですから過去には戻れない。私たちの命は、その命を積み重ねていく連続です。そして神の国は初めて神様を信じた過去より近づいているのですから、より良い神の御国を目指して歩むのです。つまり私たちの主イエス・キリストが、私たちの罪のために死に、甦り、新しい永遠の命を与えてくださったということは、もはや罪によって悩まされていた私たちの古い過去にいつまでも生きるのではなく、未来の神の永遠の命に繋がることによって、今日も、明日も生かされているという喜びをもって、生きることが、キリストを信じる私たちの生き方です。私たちはイエス・キリストの贖いによってすべての罪が赦され、古きは過ぎ去り、全てが新しくされて行く過程に生きているのです。誰もあなたを責めうる者はいません。キリストがあなたの重荷を取り除いて下さったのです。そして、このままで留まっていて良いという一生の計はないのです。私たちの人生の目的は、エフェソ1章の4節にありますように「天地創造の前に神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストによってお選びになった。つまり私たちを「神の子」にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」。
問題は、いついかなる時も、今、私たちが、神に至る永遠の命に生きて恵みの人生を送ることです。そして、私たちは滅びに至る道に落ちてこの祝福を失うことがないように注意を払うことです。実際は私たちの肉体は最後に滅びる時が来るのですが、それは肉体を脱ぎ捨て、新しい復活した体となって神と共に生き続ける永遠の命こそ、イエス・キリストが約束してくださった恵みの救いです。
つい数日前、スマホを見ていましたら、沖縄で一人の女性が橋げたの上にまたがり、今にも車が走っている下の国道に飛び降りようとしていた。それをひとりの女子高校生が目撃し、これは大変だと思い、彼女の所に駆け寄り、「どうなさったのですか。今、ここで人生が終わってしまったら、あなたを悲しむ人がたくさんいるのですよ」と優しく言葉をかけ、彼女を抱きしめ、ゆっくりと彼女を橋げたから引き下ろしてあげたそうです。その女性は泣きながら誰かに最後の電話をして飛び降り死のうとしていたのです。この女子高校生は、自分はまだ若い学生にもかかわらず、その女性を優しく介護し、通報を受けた警察の人へ保護のために引き渡したという記事が載っておりました。その後、警察から、一人の女性の命を救った行為に対して感謝状を頂いた女子高校生の名前と写真が掲載されておりました。私は、この女子高校生は3年生だということですが、優しく声をかけた言葉と行動に非常に感動しました。一人の人が、自分の人生に希望を失い、その人生を終わりにしようとしている。しかしです。「今、ここで人生が終わってしまったら、あなたを悲しむ人がたくさんいるのですよ」。まさにこの高校生がかけた優しい言葉、その女性を抱きしめ、橋げたから降ろしてあげた行動は、私たちを罪より救い、生きる命を与えてくださるイエス・キリストの姿見たような気持ちになりました。イエス・キリストの救いとは、このように私たちを生きる力を失った人、悲しみにある人を今も、聖書の言葉を通して救おうとされている。これが聖書で言う愛、神の愛です。
この世には死にたいと思うような辛い人生があります。でも理性では承服できないことです。なぜ、私には不幸な人生を負ったのだろう。納得しません。そして人生の歯車が狂いますと、悩みが悩みを生み、悪いことに悪いことが重なり、誰も信用できなくなり、うらみつらみの中に、失望と絶望が待っています。
私は、何故、「鬼滅の刃」のアニメが子供や若い層に人気となったのだろうと、一度、ストーリーを見たことがあります。つまり、人を殺す鬼は、自分の不幸に対する復讐心があるのです。悪にも正論があり、その鬼を倒す人にも正義という正論があり、この社会と人生の縮図が描かれている。このような矛盾した社会と人生に対して、私たちには、本当の解決をしてくださった、十字架に死に、正義を全うされた、私たちと共にいつもいてくださる復活のイエス様が必要なのです。イエス様の救いとは、この世には、いじめや、不正や、詐欺、騙し、差別、暴力、不誠実が満ちている人生の中で、罪の力から私たちを救う救いのことを言うのです。なるべくそれらを避けて生きたいのですが、一度、それに巻き込まれると、その中で生きざるを得なくなり、しまいに誰も信じられない、どうしてよいかわからない、自分も同じようなことをすると、益々、不満と不安がその人を絶望へと落として行きます。神様の愛というのは、そのような社会の中にある罪の力に置かれている中で苦しんでいる人が、悪の力にそのまま滅びるのではなく、神の救いに与ることを望んでおられる。イエス様は、正しい人と思う人のためにではなく、自信ある人のためにではなく、人々を苦しめる悪の力、罪に苦しんでいる人を救い、あなたは神の子ではないですか。あなたも神の子なのですよ。神の命によって人生を生きなさい。抱きしめて介抱して下さるのです。悪の力とは、自分を常に優位の立場から、弱い者をいじめるので、自分は強い人間だと思っていますが、誰からも尊敬されませんし、最後に自分が滅びることに気づきません。
現代のキリスト教の危機はヒューマニズムがもたらしていることが一因と考えられています。人間の第1の権利は自由であり、人間優位主義です。だからなかなか神様の存在に気づかない。ヒューマニズムはキリスト教文化から生まれて、非常に大切な思想で、キリスト教の文化とも重なる点が多くあるのですが、人間の根源的な救いとか、悲劇に対する解決には最終的答えは見いだせない。人間として自由意思をもっているので、反対に法律に抵触しない限り、全てが許される訳です。しかし聖書でパウロが語るにすべてのことが許されているけれど、しかしすべてのことが益になるわけではない。」「すべてのことが許されているけれど、わたしは何事も支配されはしない」。仕事も遊びも自由意思です。ただそれが益にならないこともあり、それに支配されてはいけない。友達と楽しい時があり、ひとりで悲しむ経験があっても良い。何を思い、好き嫌いがあり、何を食べるのか。食物は腹のため、腹は食物のためにあるけれど、神はそのいずれも最後に滅ぼされる。もしその自由主義の中にある罪の罠に落とされたら救いの道がない。根本的にキリスト教とヒューマニズムの違いは、私たちは一体、何のために存在するのか。自分は自分が願うように自由に生きればよいのではない。そこでパウロは、キリストを信じる者はキリストの血によって贖われ、汚れの無い者として清められ、その輝かしい恵みを、ほめたたえるために存在するのであり、自分の体で神の栄光を顕しなさいと勧めております。私たちはキリストの血によって代価を払い買い取られたゆえに、私たちは、もはや私たちの体は自分自身のものではなく、罪を贖って買い取られ、神の子として歩むのです。キリストの霊が住む神殿なのですから、それをもって神の栄光を顕す生活をしなさい。
キリスト者は、罪からの自由、つまり罪からの救いと神との和解、そして祝福された人生への転換、神をほめたたえる人生へと、導き出されて行く。現代は、愛、平和、自由を叫んでいますが、愛は神から来るもの。平和はキリストから来るもの。自由は私たちが神の子となり、神をほめたたえる喜びから来るものなのです。)
旧約聖書のコへレトには、「若き日に、あなたの創り主を心に刻め。災いの日々がやって来て「私には喜びが無い」というよわいに近づかないうちに。太陽と光、月と星が闇にならないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。という言葉がありますように、人生の終わりに、老いてなくなる時が来たとき、その先に何もないのではなく、神の顔を仰ぎ見る恵みこそ永遠の命に生きることなのです。だからこそ、コへレトの書は、若い内に、元気なうちに創造主なる神に心を注ぎ、永遠に尽きない神の恵みを享受しなさいと告げています。人生とは何でしょうか。それはどの人の人生にも、この世に生まれた人の人生に、神のご計画がある。どの年代でも神の救いは遅くない。過去を消すことはできないけれど、神様はどのような人生でも、最悪の人生でも、「神を愛する者たちのために、救いのご計画があり、万事がすべてが益となるように取り計らってくださるのです。」とローマ書8章に書かれています。つまり、最後には神の御国へと入ることができるのです。コへレトの7章には「ことの終わりは初めより良い」と書かれていますが、神様の救いのご計画は神の栄光に与り、神の懐に迎えられるということです。私たちは神から生まれ、神の子の身分が与えられ、神の愛の内に、神の栄光をほめたたえるように導かれて行くのです。
新しい年も神様の恵みが豊かにありますようにお祈りします。