人生に勝利する者

ローマ8章1-11

今日は、人生に勝利する者と題して聖書のみことばを学び、ご一緒に、父なる神様であり、主イエス・キリストに顕された私たちの恵みと祝福に満ちた主なる神様を礼拝いたしましょう。

聖書は、神様のみ言葉に満ちた宝庫です。そして、特に、新約聖書には、どこの部分を切り取ってその時に教えられる言葉があります。そしてキリスト教の信仰を、どのように理解したら良いか大事な神学的な内容が書かれた箇所として、パウロのローマ書、エペソ書、コロサイ書、ピリピ書、番外編でヘブライ書。そしてヨハネが記された第1の手紙とヨハネ福音には、父なる神と御子イエス・キリストとが共にあり、私たちもその聖霊のよる交わりに与ることによって、私たちもその神の愛に繋がることができること、隣人を愛せなければ、その霊の交わりには神の愛がないことなど、深い信仰理解が書かれています。また使徒言行録には、初代教会は人々にどのような内容を宣教し、どのようなことが起こったのか、使徒ペトロとパウロの説教が記されていて、福音宣教の内容を知ることができます。いろいろな人々の神学書がありますが、もっともすぐれた神学書は聖書の中に既に書かれてあり、2000年間の間、廃ることがなく誰にも読まれていて、聖書はクリスチャンの教科書と言えましょう。つまり今の私たちにとって、イエス・キリストを救い主として信じることはどういうことなのかを知ることができるのです。
そこで、今日は使徒パウロがクリスチャンに回心したのち、キリスト教信仰をどのように理解したのか、皆さんとご一緒に聖書のみ言葉を学んで行きたいと思います。まず、使徒パウロはキリスト教信仰をローマ書8章でこのように考えました。クリスチャンは、イエス・キリストを私たちの神、救い主として信じたのは、キリストの霊が肉の力と罪の力に、勝利されたからだ。そこでこのローマ書を理解するために、まず肉の力とは何かを考えなければなりません。私たちは肉の体を持って生まれ、心に霊を宿して生活していますが、生きるために肉に従う生活を始めます。それは肉体を持っている限り、不可欠なことです。問題は、その肉の欲求をコントロールできればよいのですが、次第に、肉の思いが募りますと、霊に従うのではなく、肉に従うようになる。それが本来の生き方から外れる罪だと聖書は語っています。そして罪の報酬は最後は永遠の死だと言っております。
パウロは「正しい者はいない。ひとりもいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆、迷い、だれもかれも役に立たない者となった」。人は本来、神のかたちに似せて造られ、神との関係性で、成長するはずでしたが、本来の的を外し、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなった」のです。でも私たちは、肉の両親でなく、私たちの魂の創造者、神なる存在に気づく時、これからの人生を正しく歩むうえで祝福と恵みを与える愛の方を知り、そこに立ち帰るとき、確かな人生の目的を知り、肉の人から、霊の人へと軌道修正する。これが的外れの人生からキリストによる救への道です。「イエス・キリストは世を裁くためではなく、世を救うために来られた」救世主、救い主だからです。
そしてローマ書では「ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みに無償で(私たちは)義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を贖う供え物となさった」。ここの神様の愛の業が隠されています。
今日のメッセージの焦点は、その後、クリスチャンは具体的に信仰生活をどのように歩んでいくべきなか。実際、クリスチャンになっても信仰の知識がないと成長しません。そこでローマ書では7章まで様々な観点からパウロはこの救いの問題をひも解いていますが、この8章では、クリスチャンになった私たちが成長して、勝利の人生へ歩むべき道筋を、結論として明らかにしていますので、その箇所を取り上げて参りたいと思います。
使徒パウロはこう述べます。
「今や、キリストに結ばれている者は、罪に定められることはありません」。私たちはいつも自分の弱さを知っているので、肉の力や罪に対して、責め立てられてしまう。しかし、一度、キリストに結ばれたクリスチャンはもはやその人は罪に定められない、と宣言をしていることです。何故なら、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則があなたを解放したのです。」何から解放されたのか。それは罪の法則から解放された。
それでは罪の法則とは何か。それは肉の思いが常に私たちを罪へといざない、数々の失敗を経験させ、わたしたちを責めたてさせ、滅びへと落とし込む罪の力の法則です。過去の罪を悔い改めて救われても、過去の罪の肉の法則の中から解放されないと、その引力によって再び引き込まれ、逃れることはできない。実際に一度、罪を犯して肉の習性を覚えてしまうと、再びその肉の力へと引き戻されてしまう。つまり、イエス様が与えて下さった救いを正しく理解しないと、この世の罪の法則に逆戻りして、また悔い改めを繰り返す生活になりかねません。最初、明治時代、キリスト教が日本に来た時、知識人は、一度は聖書を開いたけれど、実践できないと信仰を持つことなく通り過ぎてしまった。日本ではしばしば謙遜を込めて、クリスチャンになっても罪深く悔い改めることがたくさんあるのです、と言うと、私たちは謙遜なさっているのだなあ、と思いますが、アメリカの教会ではこれを聞くと驚いてしまう。
私たちは完全ではないので、度々、ミスは犯します。でもキリストの霊の法則に生きるということは、もはや罪にコミットメントしない生き方を言い、ミステイクは、生活上のミスであり、失礼をしたら謝ればよいし、またその人を責めないで赦し合えば良い訳です。それゆえにキリストの霊の法則に生きている人は、もはや決して罪に定められることはありません。と聖書は告げているのです。そこでキリストの霊の法則に生きるとは何か。それは神の愛の法則に生きると言うことです。普通、霊という言葉は非常に曖昧で、私たちも霊を持っていますし、霊の力と肉の力ではどちらが強いのかと言えば、それは肉の力の方が強く働きます。使徒パウロが言っているように、自分は良いことは欲しているけれど、自分の欲しない肉の力に引っ張られているどうしょうもない人間だと嘆き、クリスチャンが自分の霊によって正しく生きようとすればするほど、肉の力が働き挫折することになる。だから、実践しようと思うほどできないのです。それではどこが間違っているのか。
キリストの霊の法則と言うのは、肉の法則の力はキリストの十字架によって処罰されたのであり、そして復活のイエスが示してくれた神の愛によって、古い肉の人に死に、新しく生まれ変わる霊の人、つまり、自分の霊ではなく、キリストの霊に生きる生き方が霊の法則です。つまりイエス・キリストの十字架と復活の出来事は、キリスト自身に起こった出来事だけではなく、それを信じる私たちもその肉の法則に死に、キリストの愛の法則によって復活する新生の体験、ボーンアゲインを代弁していて、それが私たちの教会で行われているバプテスマ式です。
パウロもローマ書6章で説明しているように、
「もし、わたしたちが、キリストと一体になって、その死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためです」。
そこで、バプテスマを受けたものは私たちを救ってくださった神の愛の法則によって、新しい人となることを、ここでパウロは教えていて、そのキリストの霊を宿すと言うことは、神の愛を宿すことであり、「神の霊があなた方に宿っている限り、あなたがたは、肉ではなく、霊の支配下にいます。このキリストの霊を持たない者は、キリストに属しません」と語っているのです。
ここで問題なのは、何故、キリストの霊の法則は神の愛に基づくものなのでしょうか。ここに、キリスト教が有するの深い教義があります。キリスト教は唯一神ですけれど、単一の神ではありません。単一神というのは、神は独り(孤高の人・悪く言えば独裁者)ということです。私たちの神は、唯一神ですが、神は愛ですと言う時には、神の本性は、ご自分が父と子の愛の関係性をもった愛で完結しているということです。 私たちの神はペルソナ(位格)と言って、ヨハネ福音書の1章にあるように、父と子は万物の初めから共にあり、始めから父と子の関係性が愛で結ばれております。旧約聖書を読みますと、神の名はエロヒームという複数形の神とヤハウエの主なる神と交互に頻繁に出て来ますが、聖にして清い神の峻厳さと、反対に深く憐れむ神の慈愛さの両面が出て来ます。神とは複数のペルソナを持ち、キリストの出現によって、父と子は固く愛によって結ばれた神であり、一つなのです。使徒パウロは、コロサイ書1章で、この世は、キリストによって創造され、キリストのために創造されたと語っています。そしてキリストは父なる神の愛に結ばれているがゆえにこの世に遣わされ、父なる神の愛を実行するために、父なる神を愛しているがゆえに、私たちのために十字架にかけられた。そして父なる神は、父のみ旨を行ったイエス・キリストを復活させ、ご自分の右の座に置かれた。父と子の間には深い深い愛の関係で結ばれていて、私たちを罪より救い、私たちを神の子供となさしめようとして下さる。つまり神の愛とは父と子に結ばれた愛でもあり、父がわたしたちを救うために子を遣わした愛であり、父なる神の愛の故に、キリストは私たちを愛し、父なる神の愛を私たちに示された。このキリストの出現により、父と私たちの間に存在する罪はキリストの執り成しにより、赦され、それが救い主キリストの愛なのです。つまり、罪の法則から解放され、キリストを信じることは、キリストにあらわされた父なる神の愛を信じることなのです。
もし神が単一の神だとしたら、その神を愛するか愛しないか。服従するか、服従しないか。服従すれば愛し、服従しなければ罰するというこの世の支配者が部下に対してなす独裁者の愛しかない。
私たちがクリスチャンとして成長するには、この神様の強力な神の愛の法則によって、キリストに結ばれることであり、もはや肉の法則と戦うことではなくなったのです。肉の法則に私たちは死んだので、キリストの霊に仕えることが私たちの最上の喜びとなったのです。
ザアカイがそうでした。キリストが自分の名前を呼んでくれて、ザアカイの家に泊まりたいというイエス様の愛を知った時、ザアカイはイエス様の愛に招かれて、古い自分から新しい自分に生まれ変わりました。もはや不正までしてお金を欲しがっていた自分が、今度は与えるザアカイへと変えられました。
この神との愛の関係性こそ聖霊の働きであり、その交わりの霊は、神の聖霊の交わりとして存在し、わたしたちはその交わりに加わるのです。
この三位一体のキリスト教教義は、父と子は永遠の万物以前に、子は父より生まれ、聖霊とは父の霊でもあり、子の霊でもあるという大事な信仰告白で、それがヨハネ福音書では、「父の内に子がおられ、子の内に父がおられるのを知らないのか。そしてもし、キリストを信じるならば、あなたがたはキリストの内にあり、キリストの内にあなた方もおるのです」、私たちがキリストの霊を宿すとは、この愛の関係を持つことによって、私たちも父と子の聖霊の交わりに私たちもあずかることが神の恵みの生活となります。
ヘブライ書1章では旧約聖書の引用として「あなたはわたしの子、私は今日、あなたを生んだ」と書かれていますが、それは神の御子キリストが目に見える形で、この世に生まれたことを意味しおり、私たちが待ち望んでいた、この子なるキリストの出現こそ、私たちを神の愛の関係へと結ぶ救い主なる神であることを告白していますし、コリント第2の手紙13章を開きますと使徒パウロは「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同の上にありますように」と私たちが唱える頌栄が記されて、キリスト教信仰が早い段階で、このような三位一体の神が正しく理解されていたことが判るのです。
そういう意味ではキリスト教は唯一神を信じる信仰ですが、単一なる神を信じる信仰ではないので、父なる神と子なるキリストの神とその愛の交わりなる聖霊の神の交わりにあずかることが、私たちの信仰を揺るぎのないものとしてくださるのです。キリストを信じることは、父と子によって結ばれた愛によって神の愛を信じることですから、私たちが不完全なクリスチャンだからと嘆くことではなく、神様はそのような私たちを愛し支え、完全でなくても、神に愛されているのですから、キリストが招かれている愛の法則に生きる姿勢が一番素晴らしいことなのです。神は溢れるばかりの恵みある愛の神なので、クリスチャンはその溢れる愛に支えられて常に成長することができる喜びこそ、私たちの信仰生活です。そして私たちも神を愛し、またその神の愛へと導くために隣人をも愛するのです。キリストがこの世に勝利されたのは、肉の法則に死に、神の愛が全てに勝利したということで、その神の愛の家族の一員となることができました。まったき愛には恐れがありません。
これが使徒パウロが説く内在のキリスト論ですが、生前のキリストには出会わなかったパウロは、キリストの霊を通して、父なる神とその神の愛を見た。そして私たちはキリストの霊を宿す神の宮であり、そのキリストの内にはあらゆる神の徳が形をとっていて、一切の必要をも満たす恵みと祝福が隠されており、最終的には、内在するそのキリストは、父なる神の右の座に座られ、世界はキリストによって統治されていることを知りました。それはこの世がキリストのために創造され、全ての被造物が、このキリストによって統治のもとに、神の栄光が賛美されるようにと、この祝福の約束こそ、私たちの永遠の命に繋がる神の力であることを彼は発見したのです。ローマ書8章の11節には
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなた方の死ぬはずの体も生かしてくださるでしょう。」
この世に住む限り、肉体や物質世界が悪いのではなく、キリストの霊の法則に従い神の愛の関係に結ばれると、死ぬべき肉体も、滅びゆく物質世界も、復活の命によって、新しい天地となって、祝福の世界に生まれ変わるのです。私たちの肉体も最後に死ぬのではなく、その肉体を脱ぎ捨てて、栄光の復活の体へと変身させてくれる奇跡が待っているのです。これが神の栄光化の業、私たちに与えられる恵みです。
最後にローマ書の8章13節をお読みします。
「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなた方は死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つのならば、あなた方は生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子です。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする例を受けたのです。この例によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、私たちが神の子であることを、私たちの霊と一緒になって証してくださいます。もし、子供であれば、神の相続人です。しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」

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