人類の救い主 イエス・キリスト

今日は使徒言行録4章1節から14節の聖書個所を通して、神様の御言葉を学びましょう。
メッセージの題を「人類の救い主 イエス・キリスト」としました。何故なら、聖書が語る救いのメッセージは、人類に対して発せられた神のみ言葉です。現在、世界中の多くの人々が聖書を読み、イエス・キリストを信じてクリスチャンとなっています。約30億人のクリスチャンがいますけれど、どこの国でも聖書はその国の言語に翻訳され、誰でも読むことができます。是非、今日のメッセージを通して、神様の恵みと救いが皆様に届きますように心からお祈りします。
さて聖書によりますと、イエス・キリストは、十字架で亡くなられ、三日目に甦り、復活し、ご自身を40日間にわたり弟子たちに顕現し、福音を宣べ伝えよ、と告げ、天に昇られたと記されています。その10日後に聖霊が弟子たちに注がれ、伝道した結果、最初のキリスト教会が約2000年前に誕生しました。このイエス・キリストの出現によって人類の歴史は、その前の紀元前BCとその後のADに別れて数えるようになりました。なぜなら人類の歴史で、神が人間の姿をとり、ご自身を直接、啓示されたからです。それ故に聖書は神の直接啓示となったのです。
その時の様子が使徒言行録2章に書かれています。弟子たちは家から外に出て、十字架にかけられた主イエス・キリストこそ、死人の中から甦り、神が送られた救い主、メシアです、と大胆に人々に宣べ伝えました。「イスラエルの全家は、はっきりしらなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマ、洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として無限の聖霊を受けます」。この説教を聞いて、エルサレムの町の3千人が、その日に自らの罪を悔い改め、クリスチャンとなりました。その後、しばらくたってからの出来事が使徒言行録の4章から記されていますので、今日はその聖書の個所を中心に学んで行きたいと思います
ある日の午後、弟子のペトロとヨハネが祈りのために神殿に上ったところ、その入り口に、「美しい門」と呼ばれた門があり、生まれながら足の不自由な男が座って施しを請うていました。ペトロとヨハネは、彼をじっと見ますと、その男の人も何かを貰えると思い彼ら二人を見つめ返しました。その時、ペトロはこの男にこう言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。そして彼の手を持って立ち上がらせると、今まで生まれてから一度も歩いたことのない男が、躍り上がって歩き出し、神を賛美しながらペトロとヨハネと一緒に連れだって、境内に入って行ったということです。その様子を見ていた多くの民衆は大変驚きました。そこでペトロは民衆に向かって説教を始めました。なぜ皆さんそのように驚くのですか、これは私たちの力や信心によってこの人を歩かせたのではありません。あの十字架につけられ殺されたイエス・キリストこそ、神は死者の中から神は復活させてくださったのです。私たちはその証人であり、この方の名によってあの男の人は癒されたのです。皆さん、今日の今、自分たちの罪を悔い改めて立ち帰りなさい。こう呼ばわりますと、この日に、男の数で五千人の人々、女性を入れれば多分1万人近くの人々がイエス・キリストを救い主として信じ、更に加わりました。
しかし、この出来事によって一つの問題が起こりました。神殿で働いている祭司たちや、宮仕えをしている人たちが、説教をしているペトロとヨハネの様子を見て苛立ち、なぜ勝手に境内の中に入り、説教を始めたのか。けしからんと考え、二人を捉えて牢獄に閉じ込めました。そして翌日には、エルサレムを挙げて議会の議員、長老、律法学者の他、大祭司の親族らを集めまして、ペトロとヨハネに対して、あなたがたは何の権威で誰の名前であのようなことをしたのか、つまり、足の不自由な男を癒し、群衆に向かい説教を勝手に始めたのか、と問い正したのです。
 その時、ペトロは聖霊に満たされ答えました。この人が良くなったのは、あなたがたが、十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレ人、イエス・キリストの名によるのです。そして旧約聖書の詩篇118篇22節を引用して、このイエスこそ「家を建てる者に捨てられましたが、隅の頭石となった」方なのです、と読み上げ、彼らの過ちを指摘したのです。つまり、祭司たちや、律法学者、その他の人々はイエス・キリストをイスラエルの国を復興するのに、まったく役に立たない偽預言者とみなし、邪魔者扱いをしました。なぜなら自分を神の子として語り、神殿を三日で建ち上げるとか、メシアが雲に乗ってすぐにでも現れるとか、正気の沙汰ではない。そこでローマの総督ピラトに裁判を要求し、死刑を叫び、その結果、イエス・キリストは偽メシアとしてローマ兵に引き渡されたのです。ローマ兵はお前がキリストなのか、目隠しをしてこぶしで殴り誰が殴ったか、メシアなら当ててみよと侮辱し、祭司たちも十字架につけられたキリストの前に立って、もしメシアなら十字架から降りてこい。自分さえ救えない者がどうしてキリストなのかとののしり、ユダヤ教の指導者にとってはイエス・キリストは捨てられた石となったのです。罪もないイエス・キリストを十字架にかけて殺したのです。しかし、使徒ペトロは証しました。実はこのイエス・キリストこそ、人類を救う救い主であり、家の頭石となった方です。このイエス・キリスト以外に私たちを救う名は誰にも与えられていません。「ほかのだれによっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にしてこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と叫んだのです。側には生まれつき歩けなかった男が、イエス・キリストの名によって歩けるようになって立っている訳ですから、その神の奇跡を否定しようがありません。ペトロは彼らに向かって言いました。「私たちは神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うことが果たして正しいことなのですか。」間違っているのは、罪のないイエス・キリストを役に立たない偽預言者として十字架にかけて殺したあなたたちなのですよ。こう告げてその場から立ち去り再び、自分たちの教会へと戻って行ったのです。

 私たちは、この出来事の中に大切な真理を学ぶことができます。何故、人々はイエスを十字架につけて殺したのでしょうか。それは、救い主とは、必ず十字架につけられ、三日目に甦るというイエス・キリストの言葉の意味を本当に理解することができなかったからです。彼らにとって自分を救えない、神のみ言葉を語るイエス・キリストは気が狂った人物であり、偽メシアとして捨てた。そして罪のない神の御子を殺した。しかし、本当の救いは全人類の人々の罪を贖うことなしに、人類を救う道はないのです。すなわちキリストは屠り場に引かれて行く神の小羊として、自ら十字架の道を歩まれたのでした。
日本語でも「十字架を負う、負わせる」という言葉を時々、使います。その場合、嫌な事をその人に負わせられるとか、犠牲を強いられて重荷を負うという意味で使われます。しかし神様は、罪ある私たちが滅びないように、ご自分の御子を十字架から救うのではなく、私たちを愛し救うために贖いの供え物としてキリストを捧げられた。ここに祭司たちの思いと、神様がご計画されたキリストの救いの違いがあります。キリストが十字架につけられたのは、神の御旨は、キリストが助かり、私たちが滅びるのではなく、キリストが裁かれ、私たちが救われるようにと、神の愛に基づくもの。それは神の痛みの愛。最初で、最高の人類への愛。ヨハネの手紙に書かれていますように「わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を贖ういけにえとして、御子を遣わしになりました。ここに愛があります」。神の方が自ら耐え忍んで命を与え、私たちを愛するその愛によって救いがもたらされたのです。それゆえ私たちはその恵みの福音を心から信じるならば、誰でも救われる道がここに備えられたのです。
キリストの十字架とは何だったのでしょうか。それは全人類に供えられた唯一の救いの十字架。神の御子が裁かれて、反対に全人類の罪が赦される贖いの業、最初で最後の救いのシンボルであり、それ以上、それ以下の十字架ではないのです。
もっとわかりやすくお話をしますと、ある女の子に、顔の醜いお母さんがいました。その少女はお母さんをとても恥ずかしく思い、一緒に外へ出ることはできませんでした。何故なら、お母さんの顔はやけどでただれ、とても人前で見せることのできない顔でした。でも少女が少し大きくなって、青春期になった時、彼女は、幼少時代に、お母さんがストーブの上で煮えたぎったお湯をこの少女の顔にかぶりそうになった時、必死にこの少女をかばって、自分の顔にやけどを負ったという事実を知らされた時、彼女は、お母さんが世界一大好きなお母さんとなりました。人と会うたびに私のお母さんは世界一のお母さんと人々に誇りながら紹介しました。私のお母さんは、とても素敵なお母さんです、私の代わりに大やけどから私を守ってくれたの。お母さんありがとう、私のお母さんは最高のお母さんです。
十字架は、意味の分からない人には、ただ運が悪く、はりつけになった何の役にも立たない人々に捨てられた石です。しかし、それは私たちの内にある罪の贖いのために、あのような姿で罪の償いをしてくださった方であると知った時、私たちはその神の愛に感動し、感謝し、十字架のイエス・キリストを誇りに思い、そして人生で最高の誇りの十字架となり、最高の神の愛のシンボルとなるのです。しかもその方は、最初に死人の中から甦り、この世に勝利し、私たちはその方の償いによって、私たちの罪は贖われるのです。だから神の救いの信じる者となりまさい。これが十字架の福音のメッセージです。
何という神の恵みなのでしょうか。本当の真実を知る、そして本当の神様の愛を知る、その時、私たちはまったく新しい人生を発見し、何のために私たちは生きるのか、何のためにこの世界を愛し、人々を愛するのか、本当の理由が判るのです。こうしてわたしたちの前に新しい歴史が始まったのです。
ペトロとヨハネはこの日、教会に戻り、神を賛美し、祈りました。「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」。この祈りが終えるやいなや、一同の集まっていた場所が再び揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を再び語り出しました。と聖書に記されています。
悲しみの内にある人は慰めと希望が与えられ、闇には光を放ち、困難には救いを待ち望み、不安とおそれには主の平安と平和を祈り、憤りには柔和と寛容をもって和解をし、心の中には常に神への賛美と感謝の生活が伴いますように、お祈りします。キリストにある1日は、最上の喜びの日となり、そして次の日は、更に恵みが増し加えられ、1日1日よ私たちは、神の国へと成長して行くのです。
イエス・キリストは「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。」このよう主は全ての人々を今日も招かれております。

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