2022.5.29 常盤台教会
使徒言行録2章22-36節
皆さま、お元気でしょうか。コロナ感染がまだ続いておりますが、主が共におられ健康が守られますように、主の恵みをお祈りします。またロシアのウクライナ侵攻が解決され、平和が訪れますように、共に祈って参りましょう。主は歴史を導かれる主。神の御国が来る時まで全てを統治される方。そして私たち一人ひとりの人生を豊かに導かれる主です。
私も今まで70年余あまりの人生の過去を振り返り、多少の波風はありますが、大病にかかったこともなく、家族も守られ、事故もなく、一生懸命、仕事をしながら歩んで来れたことを感謝しています。特に最後の20年間は、毎年1年の半分近くを国内外へと駆けずり回っておりましたが、危ない危険な事もあったのですが、無事に、元気に歩んで来たことを不思議に思います。昨年から少し体をやすめ、50年目のヨベルの年として、このコロナの自粛生活が、丁度、神様から与えられた安息の時として、備えられまして、これも本当に感謝です。
さて本日は礼拝の最初に詩篇23編を朗読して頂きました。
これはダビテ王の詩。実際にこれは譜をつけてユダヤ教の礼拝でも謳われてきました。彼は音楽家でしたので、彼のひく竪琴の音色は、サウル王の心を和やかにし、その病んだ心を癒したことでしょう。また羊飼いであった彼は、毎晩、竪琴を弾きながら、羊の群れを前にしてこの美しい賛美の調べを謳い、彼自身も安らぎを得たことでしょう。彼はこの詩篇23編の中で、「主は私の羊飼い・・・たとえ死の陰の谷を歩むとも 私は災いを恐れない あなたは私と共におられ あなたの鞭と杖が私を慰める」と謳っています。主を「あなたは私と共におられた」とは「主をあなたと呼び」何と親しみのある呼び方なのでしょう。
彼はエッサイという父の末っ子で羊飼いの少年でした。エッサイの父はオベドで、ボアズとルツ記のルツのひ孫にあたります。青年時代に、ライオンと戦い、ペリシテ人の巨人ゴリアテを倒し、一躍名雄となりましたが、直属のサウル王に命を狙われ、国外に逃亡し、何年も死の陰の谷をわたるような流浪の人生を経験しました。その彼が、「あなたが私と共におられ あなたの鞭と杖が私を慰めた」と告白しているのです。
神を信じている人はたくさんいます。アメリカ人では90%近く。日本人でも60%近くの人が漠然と神の存在を信じているそうです。でも信仰を持たないと、神様を「主よ、呼ぶことはできません」。また「主が私と共におられる」とも告白はできません。
また信仰を持っていても、いつの間にか油断して自分が主になり「主が共におられる」と言う信仰が失われるようになるかもしれません。またキリスト教の知識、知性だけが先行すると、実際の生活で、主が共におられるような状況が起こらないようになってしまうかもしれません。神様を信じていると言えても、これは大変なことです。現実生活は、あまりにも知識や情報にあふれていて、誰がどうした、こうしたなど、また、毎日、あちこちで事件や事故が起こり、いつもこの世の出来事に振り回さてしまうのです。そのような生活の中で、「主が私と共におられる」とはどういう信仰生活を言うのだろうか、聖書から学んでみましょう。
ここで「主」とは、神様の別な呼び方ですが、新約時代に住む私たちにとって、主とはだれか。それは「復活した主イエス・キリスト」のことを指すと言うことです。
今日の聖書箇所、使徒言行録2章には、これを説明するために、キリスト教会が誕生した最初のペンテコステの日に、使徒ペトロが、ダビテの詩篇を2か所引用して人々にどのようにしてイエス・キリストが主であるかを宣教したのか、見てみたいと思います。ペトロの説教は使徒言行録の2章の6節から始まりますが、何故、イエス・キリストが「私たちの主」であり、救い主なのか。そこにいた民衆は、皆、十字架にかかる前に、イエス・キリストが、エルサレムにロバに乗って入城した時、人々がダビテの子、ホザナと叫んだことを知っています。そしてそのダビテの子、イエスに期待したのです。そこでペトロは誰でも知っているダビテの詩篇を通して、これらの民衆にイエスこそ、「私たちの主」であることを丁寧に語り掛けました。
まず、詩篇16篇からの引用です。
「私は絶えず目の前に主を見ていた。主が私の右におられるので私は揺らぐことがない。それゆえ、私の心は喜び 私の舌は喜び踊った。私の肉体もまた希望のうちに安らう。あなたは私の魂を黄泉に捨て置かず あなたの聖なる者を朽ち果てさせない。あなたは、命の道を私に道を示し、み前にいる私を喜びで満たしてくださる」
このペトロの引用は詩篇16篇の原文通りです。
ここでペトロは、ダビデが、「私の魂を黄泉に捨て置かず、あなたの聖なる者を朽ち果てさせない」と語っているは、ダビデ自身のことではなく、あなたがたが十字架につけ三日目に甦ったあのイエス・キリストのことを預言して「私の魂を黄泉に捨て置かず、あなたの聖なる者を朽ち果てさせない」語ったのだ。何故なら、ダビデは死に葬られ、その墓は千年の間、今、ここにあるではないか。ダビテは後から遣わされる主イエス・キリストを予見して、つまりイエス・キリストの復活を預言してこの詩を謡ったのです!
つまり、イエス・キリストは決してダビデの子ではありません。ダビデが待ちわびていた主と仰ぐ、救い主であり、そしてあなた方は、そのイエスを十字架につけるようなことをしてしまった。しかしこのイエスこそダビテが予言した墓から甦えった救い主なのです!、と民衆に訴えたのです。
そしてその後、詩篇110篇1節からペトロは引用します。「主は、わたしの主に告げられた。私の右に座れ、私があなたの敵を あなたの足台とするまでは」。これも詩篇110篇の通りです。
この聖書の箇所と言うのは、皆さんも新約聖書で度々、目にして読まれているみ言葉で、ご存じの方がいると思います。イエス・キリストご自身はマタイ、マルコ、ルカの3福音でこのダビテの詩を引用し、何故、人々は、わたしをダビテの子と呼んでいるのか、そうではない。ダビデが「主は、わたしの主に告げられた。私の右に座れ」と言って、主を「わたしの主」と呼んでいるのに、どうして「その主が」ダビテの子であるのか、イエスは弟子のペトロに振り返って尋ねると、ペトロは、あなたが言うように、あなたはメシヤです、神の御子、主ですと信仰告白する場面が出て参ります。つまり、人々は、最後まで、イエス・キリストがどういうお方なのか理解できなかった。つまりエルサレムにロバの子に乗って入城したとき、ダビテの子、万歳、ホザナ、ホザナと叫び、ダビデに継ぐ新しい王様が誕生すると考えた。しかし、イエスはダビテの子である地上の王になるお方ではなく、神の御座に座わられる救い主、「私たちの主」になるお方なのです。それでも群衆にとっては「王」となるべくダビテの子が、十字架にかかり、亡くなった訳ですから それでも大変な失望と落胆をあたえたでしょう。けれどもイエス・キリストは「ダビテの子」ではなく「ダビテの主」であったので、ダビテが詩篇で歌ったように、イエス・キリストは黄泉に捨てられず、復活して永遠の救い主として今、神の右の座に座わられたとペトロは人々に訴え、その「主」を信じる者は、全ての人々に聖霊をくださるのですとペトロは力強く説教をしました。
このダビテの詩篇の中で、日本語訳の「主は、わたしの主に告げられた」という箇所は、原典の言葉を調べないと非常にわかりにくい箇所です。最初に出てくる「主は、」は「神(ヤハウエ)は指していて、次の「私の主は」ダビテ王と共におられる「主」(アドナイ)を指していて、ダビテは、来るべき主イエス・キリストを予見してここで「私の主」と呼んだのです。明治時代の聖書は、神をエホバ、つまりヤハウエと訳しましたが、聖名をみだりに呼んではならないという教えに従い、エホバの代わりに「主」アドナイという名前を使うようになったので、同じ言葉が2つ並んでしまったため大変、理解しにくくなりました。
英語ですと始めの主は大文字のLOADで2番目の「私の主」は小文字のloadです。
つまり、神、つまりエホバ、或いはヤハウエは誰も見た人はいない、その神が神から遣わされた御子イエス・キリストを、「私たちの主」としてお立てになった。そしてこの方を通して、神様は私たちと出会い、祈り、会話をし、私たちを導き、守り、共にいてくださるのであり、イエス・キリストこそ「私の主、私の神」なのですよ。と人々に語ったのです。そのダビデが私の主と呼んだ主イエス・キリストは、今、復活し神の右の座に座られ、全ての敵が降伏するまで、あなたと共に守り、導き、サタンを統治される勝利の主となったのです。ダビデはこの主イエス・キリストを預言し、謳ったのです。
これを聞いた群衆は、あのイエスという方は、我々が尊敬するダビテが、「私の主」と呼んだ方であり、復活し神の右の座に座られたと聞いて、恐れをなし、私たちは何という勘違いをしていたのであろうか、大いに心を強く刺され、「私たちは、どうしたらよいのでしょうか」と尋ねると、ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受け、罪をゆるしていただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう」。彼らにこう勧め、その日に三千人の人々がバプテスマを受けてクリスチャンになったのです。
律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現われた。今まで、誰も神を見た者はいないけれど、父の懐にいる独り子である神、この主なるイエス・キリストこそ神を、私たちに示された。
つまり、ただ神を信じているだけでは、神を理解できない。「主が共におられる」と言う体験もできない。現代の福音を宣べるポイントはここです。私は多くの人々が、わたしは神を信じているのに、どうして、このような不幸が起こるのでしょうか。病気や、職を失ったり、身内を突然失うような出来事があります。教会に通っていても、私には将来も希望がありません。いつまで我慢するのですか。このような悩みを聞きます。確かに今の時代を見ると、世界が段々悪くなっているように見える。牧師の私もそう思います。まったく同情します。しかし私たちは決して独りではなく「復活の主が共におられる」。
そこで今日のメッセージは、「死の陰の谷を歩む」ときにも、神は、私たちの思いを超えている方だからゆえに、希望を持つのです。死から甦った復活の主が私と共にいてくださるからです。そして主はまだ見ず、踏んだことのない新しい道を私たちに用意してくださるでしょう。それは驚きであり、奇跡なのです。だから私たちは何を恐れるのでしょうか。恐れるものは何もないはずです。主が私を守られ、御側におられ、常に私を御元に引き上げようとしてくださるのですから。主は、私たちに立ち向かう者をその足元に置く時まで、私たちの主イエス・キリストは父なる神より全権を賜り、全世界を統治される方ですから。「復活の主イエス・キリスト」こそ、正しく物事を量られるゆえに、完全で間違いはなく、生きて働く神、現実を変える神。その御業が遂行される時まで、思いを尽くし精神を尽くすべき主。その救いの力と、清い愛の力に支えられて、神の御旨を全うするために私たちクリスチャンはここに立てられているのです。神、主イエス・キリストこそ道であり、真理であり、命なる神です。主から聖霊の力を受けなさい。待ち望みなさい。
最後に、もう一度、注意深く、23篇を全部読んでみましょう。「主は私の羊飼い 私には乏しいことがない 主は私を緑の野に伏させ、憩いの汀に伴われる 主は私の魂を生き返らせ 御名にふさわしく 正しい道へと導かれる たとえ死の陰の谷を歩とも私は災いを恐れない あなたは私と共におられ あなたの鞭と杖が私を慰める 私を苦しめる者の前で あなたは食卓を整えられる 私の頭に油を注ぎ、私の盃を満たされる 命ある限り、恵みと慈しみとが 私を追う 私は主の家に住もう 日の続く限り」
いかにデビテは、この神の右の座にいます私の主と共に、満ち溢れた恵みの人生を歩んだことでしょう。「主は私の羊飼い」。「乏しいことはない」「憩いの汀」「正しい道」「食卓を整える」「油を注ぎ」「盃を満たされる」「恵みと慈しみが追って来る」。彼は命のある限り、彼の城ではなくして、主の家に住むことを、日の続く限り願ったのです。
コロサイ人の手紙では、「キリストにこそ、満ち満ちている一切の神の徳が、形をとって宿っており、そしてあなたがたは、そのキリストによって、その恵みにあふれるばかり満たされています」とあり、ピリピ人の手紙でも「私たちの神はご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たし、この世でも天国においてでも主の平安と平安を限りなく与えてくださいます」と書かれています。
今日、皆さんにもこの復活の主が共にいてくださいますように。そしてその主に祈り、その御声を聞きながら、主が私たちを導かれますように祈ります。