私たちは、一度は、自分は何のために生まれたのであろう、誰でも考えたことがあると思います。分かりやすく言えば、自分はどのような人生を送くろうとしているのか。ということです。でも現実生活を生きるためには、実際は、勉学なり、仕事なり、何らかの生活をしながら日常生活を送っているのが現状です。生活のために働いている人もいれば、興味あることや、責任感や使命感をもって働いている人もいます。また夫婦生活や家庭生活を一番大切にしたいと思っている人もいます。或いは自分自身の人生の夢を切り開いて行きたいと頑張っている人もいるでしょう。また中には、何も希望が持てない、自暴自棄や、厭世感に陥っている人もいるでしょう。或いは、歳をとって、これからの生きがいは何もない。ただ健康を大事にして毎日をのんびり生活している人もいるでしょう。
聖書は、そのような様々な人生の過程の中で、人生の本当の目的は何か。本当の幸福とは何か。そのためにどのような生き方をすれば良いのか。私たち一人ひとりに大切なメッセージを伝えています。今日は使徒パウロの書巻、フィリピ人への手紙からお話をしたいと思います。
旧約聖書には、コヘレトの書という約2200年前に書かれた書巻が載っておりますが、その書き出しを読んでみますと「何という空しさ なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は苦労するが すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり 永遠の大地。日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、巡り巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることはなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる。」
私はこの箇所を最初に読んだ時、何という厭世的な内容なのだろう。聖書にどうしてこのような書巻があるのだろうと思いました。大変理解に苦しみました。早く言えば、どんな人生を一生懸命送っても、最後にはすべて無に帰し忘れ去られ、また同じことが繰り返される。そして行き着くところは、始めと終わりは一緒だ。裸で生まれ、裸で土に返る。頑張って働いて名声をなした人も、放蕩で身を崩した人も、平等に死を迎える。すべては空しいと言っているのです。これは一体何という書物なのだろう。確かに人生は矛盾に満ちています。最近の若い人たちの人生観で、人生は生んでくれた親次第だという宿命論を耳にしました。つまり出口がないということです。けれども何かに成功を収めたと人も、死ねば、すべて他人の手にわたる。次の人がそれを大切にしてくれるのかも分からない。
実はこの「コヘレトの書」と言うのはヘレニズム文化の影響を受けていて、紀元前200年から300年ごろ編纂されたもので、特に、思春期、青年の年代に入りますと、人は結局、最後には死ぬ運命であることを自覚するようになると、厭世的な感情に陥り、一度はこの事実に直面いたします。そしてあまり真剣に深く考えると、絶望して自死してしまう事故が起こります。私も大学生時代、付き合っていた友人が、生きる意味を真面目に考えて、いろいろ意見を述べ合ったりしました。ある夏、一緒に旅行して一緒に過ごしたのですが、学校の夏休みが明けても、彼は一度も大学に戻らない。しばらくして大学側から自宅の納屋で命を絶ち亡くなったという報告を受けました。自分で死を選んだ。何という悲劇だろう。本当に残念でたまりませんでした。人生の目的が分からない。また反対に毎日があまりにも幸福過ぎると、いつかその幸福が崩れる時が必ず来ることを察して、幸福の絶頂期に自らの命を絶つ人もいるのですね。自分のみじめな姿をさらしたくない。これもまた人生の本当の目的がわからない。つまり、物事は永遠にそのまま続くことは無いということです。本当はこの問題を正しく解決しないといけないのですけれど、とりあえず大人の常識というのがあって、まず生きるために働く、そして生きている間は、健康で楽しく幸福であればよい、後は死んだらおしまい。このような死生観を持っている人が多いのではないでしょうか。
このコヘレトの書は、ギリシャの文明が起こされた時、ギリシャ哲学の厭世主義がユダヤ教に入り込んで来たので、この問題をどのように自分たちの信仰を理解したらよいのだろうか、そのような思いでこのコヘレトの書が記されました。このコヘレトの書を注意深く読みますと、文章の中にその解釈のヒントが隠されていて、決して厭世主義勧めているのではないことがすぐ判ります。つまり、一番大切なことは、「神を思う心、神を信じる心」です。これを若い時に、少しでも早く求めなさい、神は永遠の神なのだから。あせらず、この人生を時にかなって過ごしなさい。理屈に合わないこともたくさんあるかもしれない。けれども人には答えを見つけることは不可能なのだから、泣くときには泣き、楽しむ時は楽しめ。そして神に感謝して時を過ごせ。決して後になってから悔いることのないように。実は、このように積極的な生きるための信仰を勧めていて、明日は、良いこと、悪いこと、何が起こるか分からないからこそ、今日、一日を永遠の神の命を信じて一生懸命、生きなさい、と勧めているのです。これはイエス・キリストが、明日を思い煩うな。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば全てのモノは添えて与えられる。あなた方は一羽のスズメより勝って、神が守られる故に。つまり生きるにも死ぬるにも、全て神に委ねて、毎日を精いっぱい神の国を求めて、その日を一生懸命、生きるのです。自分を生んでくれた両親とは別に、私たちを創造し、全てを導かれる天の神様がいらっしゃるということです。
そこで、本日の本題であるフィリピ人への手紙に戻りたいと思います。フィリピ人への手紙を記した使徒パウロは、始めはクリスチャンを迫害した者でした。後に、天からの声を聞き、自分の間違った行動を示されて、悔い改め回心しクリスチャンになりました。その後は、一転してキリストの救いの福音をのべ伝える伝道者となって、その一生を捧げました。
その彼はこの世で厭世的な思いを起こさせる力は、罪の力であり、最後は滅びと死とが待っている。それが私たちを苦しめているのだと理解しました。なぜならそこには死を超越した永遠の命がないからです。しかしイエス・キリストは永遠の命である神から、その罪を取り除く小羊としてこの世に遣わされ、十字架で流された血潮によって罪が清め、贖われることによって、キリストの身代わりの愛によって私たちに永遠の命を与えられた。これこそ、神の愛、神の恩寵、人生最大の救いだと使徒パウロは理解したのです。
ヨハネ福音書には
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人でも滅びないで、永遠の命を与えるためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」と聖書に書かれている通りです。
キリストは私たちに永遠の命を与え救うために来られたのであり、決して裁くためではない。一人一人を愛してくださっておられる。でもそのキリストの救いを受け入れないとしたら、私たちの命も、永遠に滅んでしまいますよ。だからその滅びから救われなさいと招かれている。私はキリストの救いを受け入れないけれども、私を救ってくださいとは矛盾したお願いです。そのままでは滅びてしまうのですから、救われることを願うなら、このキリストの愛の招きに応じることは極、当然なことです。そして、求める者は誰でも救われるのですから、この救いのメッセージは福音なのです。それゆえ救われた私たちが、この福音を一人でも多くの人に宣べ伝えるのは神の愛に基づくものなのです。神が私たちを愛してくださったように、私たちは隣人にキリストの愛を伝えるために伝道をするのです。
実はこの喜びの書と呼ばれるフィリピ人への手紙は、使徒パウロがキリストの福音の伝道のために、牢獄に入れられた人生のどん底の時であり、しかもそのことによってある人は更に福音を宣べ伝え、他の人は、使徒パウロが牢獄に居る間に彼に対抗して、福音を宣べ伝える者がいると挨拶文で書かれています。しかし使徒パウロはどちらにせよ、私は福音が宣べ伝えられることを喜んでいる。もう使徒パウロにとっては、誰が福音を宣べ伝え、誰が自分を邪魔しているかは問題でない。福音を宣べ伝えることはキリストのためであり、そして誰かがそれを宣べ伝えているのなら、どこの派閥か、どこの教会か、牧師でも、信徒でも、それは問題ではない。使徒パウロにとって、救われた者は皆、人生の目的は、信仰の歩みの勝利者として新しい永遠の命への栄光が待っているからだと考えました。
そこの箇所を読んでみますと、
「私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。けれども、肉において生き続けることで、実りある働きができるのなら、どちらを選んで良いか分かりません。この二つのことの間で板挟みの状態です。私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、この方がはるかに望ましい。しかし肉にとどまるほうが、あなたがたのためにはもっと必要です。こう確信しているので、私は世にとどまって、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、あなたがた一同と共にいることになると思っています。」
つまり、私は早くキリストの元に行き、もっと自由な永遠の命に与りたい。でも生きている限り、神がどんなに愛のお方か、キリストの恵みがどんなに素晴らしいかを証することは素晴らしいことであり、その板挟みでの中で生きているのだ。
なぜかと言うと、彼は既に永遠の命を目指しながら、今を生きていて、人生の目的は神の御元に引き上げられ、栄光の甦りの体へと変わること。だからこそ、生きている間は、毎日、毎日をこの永遠の命を信じる。生きている瞬間、瞬間、その都度、その都度を感謝し、喜んで毎日を生きていることを告白している。このようにして、私たちは生きても、死んでも神の栄光を現す存在なのです。そしてこの世では一日、一日が神の恵と祝福に満ちた感謝の生活であり、神の栄光を賛美し、死んでも神の愛と共にある存在、すなわち「生きるにも死ぬにも主のために」。
これは別に、病気の方や、老齢者を対象としたものではない。人はいつ死を迎えるのは分からない。最近は100歳を超える人が1万以上いると言いますが、反対に平均寿命、男81歳と女87歳ですが、これ以下の人もそれと同じ数の亡くなる人がいるので、若くし亡くなる方もたくさんいる。大事なことはコヘレトの書にも書かれておりますように、少しでも若く早い時に、永遠な神を知り、神の救いを求めなさい。いつ神の国に行っても良いように。
使徒パウロはフィリピ人の手紙3章では、「わたしは、既にそれを得たと言うわけでなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とか捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」彼にとって人生の目的は、上にあるものを求めて、私たちの永遠の命であるキリストが現れる時に、キリストと共に栄光に包まれることでした。そしてキリストの再臨を待ちつつ、初代クリスチャンはみな、福音を宣べ伝えました。
永遠の神の命に与った人には、生きる目的があり、決して失われない希望があります。この世で生きていて、何もすることがないのではなく、上り坂、下り坂、まさかの出来事があるこの人生のレースを走りながら勝利者のゴールを目指して走るのです。
そこで、一つ大事なことを申し上げたいと思います。正直に言いますと、私は若いころには聖書で語る永遠の命とは、死んでも生きる復活の命、という理解しかありませんでした。それは目に見えないので、永遠の命は信じた者に与えられる天国に入る一つの概念で考えておりました。このコロナ感染拡大になって、教会の礼拝に出席できなくなり、自分からビデオ礼拝なり、聖書を読み、祈るなどしない限り、以前に信仰を持っていただけでは永遠の命は失われてしまう。これに気づかせられたとき、永遠の命とは、信仰者の所有物ではなく、永遠の命は神だけのもの。神の命と関係を持つ時だけ、私たちは永遠の命に生きることができる関係性を指しているのであって、かつて信仰を持ち、その後、信仰を失えば永遠の命も失われてしまうのではないか。「初めに神の言があった。その言には命があった。その命は人の光であった」「私は道であり、真理であり、命である」。私たちの内には永遠の命はない。だから永遠の命が与えられるとは、永遠に神と共にある継続性を述べているのでは、と教えられたことです。コロナ感染が収束した後は、教会の働きがリバイブされないと今までのモノが失われて行ってしまう。時が良くても悪くても福音を宣べ伝えなさい。と聖書は語っています。
もはや私たちは、自分だけのために生きるのではなく、「生きるにも死ぬにも主のために生きる」。使徒パウロはローマ人への手紙でも、「わたしたちの中には、だれひとり、自分のために生きるひとはなく、だれひとり、自分のために死ぬ人はいません。わたしたちは、生きるとすれば、主のために生き、死ぬとすれば、主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても私たちは主のものです。」
毎日、毎日は、主が供えられた素晴らしい日々です。職場や家庭で、学校で、何事でも、主のために一生懸命生きる。多くの人々にキリストの香りを放す者として。光をマスの下に置く人はいないように、人々の間でキリストの光を灯す。塩も濃過ぎると役にたたないけれど、少量で役に立つ。それは地に撒くもの、社会に優しさと正義をもたらす働きをする。
今週も世の光、地の塩として、主のために、永遠の命を目指して歩みだそうではありませんか。そしてこの素晴らしい救いの恵みを宣べ伝え、証をして参りましょう。