真理なる神―イエス・キリスト

ヨハネ 4:16-26

今日は。キリストの受難週を前にして、ヨハネ福音書から「真理(まこと)なる神-イエス・キリスト」と題して神のみ言葉を皆さんとご一緒に学びましょう。

今日の聖書個所であるヨハネ福音書ですが、これは、弟子のヨハネが著者ではなく、この著者はヘレニズムというギリシャ文化に親しみ、ギリシャ語を話す異邦人のクリスチャンだと考えられています。ユダヤ教の背景を知らない異邦人に対してもキリスト教の福音とは何かを判り易く紹介していて、その成立は、マルコ、マタイ、ルカ福音書に、更に、新しい内容を盛り込み、新約聖書の中でも最も遅い紀元100年頃だと推測されます。
そのためしばしばキリスト教を知らない国々で伝道するとき、信仰がよくわからない初心者には、まずヨハネ福音書から読みなさいと言われるのはそのためで、イエス・キリストのことを、世の光、命の水、命のパン、良い羊飼い、道、真理、そして神は愛であり、互いに愛しあうこと、イエス様のなさる奇跡は「救いのしるし」なので、神から遣わされた救い主として、イエス・キリストをそのまま信じなさい、そのままでいいから信じなさい、これがヨハネ福音書のテーマです。
皆さんも良く知っている聖書の箇所は、「神はその独り子を賜るほどこの世を愛された、それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じないからである」

クリスチャンの皆さまの中には、特別に、罪の意識を持ち、悔い改めを通してクリスチャンになった方もおれば、信じないことは罪だと知って信仰を選びとった方もおられるかと思います。何か、悪いことや困ることが起きなければ、信仰は持つ必要を感じないのではなく、世の光、真理の道、命の水の教えのように、神の真理の道を学びたいと願って、クリスチャンになられることも素晴らしいことです。
信仰は決してその人が罪に躓かなければ、救いを理解できない、或いは苦労しなければ、信仰を得られないのではなく、神から与えられ、示され、導かれた真理の道に素直に従って歩むという、神の救いの招きに応じることは大事なことです。つまり、普通の生活をしている人も、より良い実りある人生を目指しキリストを信じるように全ての人が招かれているのです。
仏教の親鸞の教えに「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な教えがあります。これは「善人でさえも極楽往生できるのだから、ましてや悪人が往生できないわけがない、という意味です。つまり善人が救われるなら悪人は当然救われる。悪人だけが救いを必要としていると考えは間違いだと諭した親鸞の言葉です。これは私たちの信仰についても同じことだと言えます。
私は、最近、ある牧師がクリスチャンになった時の話を証されました。彼は大学生時代、英語をただで教えてくれるということで宣教師に出会ったそうです。そして半年ぐらいたった時、その宣教師は、バイブルクラスで一緒にお祈りしましょうと誘い、神様はあなたのために十字架に死に、罪を贖ってくださいましたと、祈り始めたそうです。彼はそれをじっと聞いていて、私は何も悪いことをしていないのにと思いながら・・祈り終わった時に、宣教師と一緒に大きな声でアーメンと言ったそうです。ところが祈り終わっても、その宣教師は、目をつぶって動かないで黙って祈ったままでいる。まだ祈りが終わっていないのかと思って、彼も一緒に目をつぶって祈り終えるのを待ちました。そしてその宣教師の真剣な沈黙の祈りが5分経ち、10分経った時、急に彼の胸に内が熱くなり、その宣教師の祈りの中に、神の愛を見て、彼は泣きながら、私は「イエス様のことを殆ど知りませんけれど、私はそのイエス様を信じて、これから神様を信じたいと思います」と、宣教師に告白した。その時から、彼の心の内に神の光が差し込み、その後は生涯を献げて現在も、現役牧師として活動されておられます。
イエス様の福音の中心は、学者で議員でもあったニコデモに対しても「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。
イエスのお弟子さんのアンデレも、私は今メシアに出会ったと、ペトロに話ましたら、ペトロもすべてを捨てて弟子となりました。そしてヤコブとヨハネも、皆、漁師仲間でしたが、イエス様に出会った時、網を捨ててイエス様にそのまま従ったのです。真の神様に出会ったすべての人々は、イエス様をメシアと信じ、神を証する者、伝道者とし召されたのです。
また反対に、罪人として、責められるような人たちにも、それを咎めず、今日、お話をするサマリヤの女性にも、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と言われ、罠によって捕えられた不倫の女性には「私は、あなたを罰しない。行きなさい。二度としないように」と優しく諭しました。
私は時々、アーサーホーランドというアメリカ人を父親とした日本人伝道者のユーチューブを見ることがあります。自分は、型破りの不良牧師だと称して、アメリカ大陸や日本国内で十字架を担ぎ、千キロ近い距離を歩かれている方ですが、彼の説教と行動を通して年間、100名を超える方がその牧師を通して信仰を決心されるそうです。特に、かつてキリスト教とは縁遠い人々、元やくざの方とか、世俗にまみれて仕事をしている方とかが、イエス様の話を聞き、罪を悔い改めて、何十名という方が、そこから牧師、伝道師になって宣教の働きをしている。親鸞の言葉ではありませんが、元やくざの方が牧師になるのですから、普通のかたぎの方が牧師や伝道者になってもおかしくはありません。私たちは、イエス様は神様であっても自分は関係ないのでなく、イエス様こそ真の神様だからこそ、私たちは信じる必要があります。
そして今日の聖書の箇所、ヨハネ福音書の4章では、長い間、人生の幸福を求めてさまよっていた、サマリヤ人の女性にイエス様は出会われたことが記されています。彼女は過去に5人の男性と同棲し、今は6人目の男性と同棲していたので、人目をはばかって昼時に、井戸に水を汲みに来たのでした。その時、イエス様が「あなたの汲んでいる水はすぐにのどが渇くが、私の与える水は永遠に泉のごとく湧き上がる水です」と言われるのを聞き、その上、自分の人生を全部、言い当てたこのイエス様にびっくりして、この方はきっと預言者かもしれないと思いました。彼女は「私どもはサマリヤの山で神様を礼拝していますが、あなたがたはエルサレムで礼拝しています」と自分の立場を説明しました。ユダヤ人とサマリヤ人は人種的に敵対していたので、サマリヤ人は、ユダヤ人とは別な場所で神様を礼拝しておりました。それを聞いたイエス様は、「サマリヤの山でもエルサレムの神殿でもない所で礼拝する時が来ています。神は霊と真理をもってまことの礼拝する者を望んでおられるのからです」と応えられ、ユダヤ人であろうと、サマリヤ人であろうと、ただ真の神を信じる時が来ていることを告げました。するとその女性はすぐに、「わたしはメシアと呼ばれる救い主が来られることを知っています」と答えたのです。イエス様はその女性に驚くべきことを伝えました。「あなたは今、そのメシアに今、会っているのです」と。
彼女が今まで求めていたのは、何をしても満足できなかった。本当の望みは真の神、メシアにいつか出会うことの期待でした。そして今こそ、そのメシアであるイエス・キリストに出会った瞬間でした。その時から、彼女に新しい人生の扉が開かれ、恥をも忘れて、町の人々のところに行き、この方はメシアです。何でも私のことを言い当てましたと紹介し、それを聞いた町中の人々が大勢来て、そのイエスの教えをと話を聞き、皆、彼ら自らイエス・キリストを信じる者となったということです。

一体、人生で様々な出会いを経験します。期待しても失望したり、信じたものが裏切られたり、どこに本当の真理に出会えるのでしょうか。会社で教えてくれますか。学校で教えてくれますか。或いは自己啓発ですが、古からの教えや知恵でしょうか。聖書こそ真の神の真理の御言葉であり、もし、聖書のみ言葉に出会うなら、そこにこそ永遠に変わらない真理があります。聖書の言葉は、神の霊感によって記され、どんな解釈があろうとも、将来も永遠に変わりません。この世の花、草は枯れて滅びるけれど、永遠に変わることはないと聖書に書かれている通りです。そしてイエス・キリストは、昨日も今日も永遠に変わらない神なのです。

常に社会は変わっていきます。価値観も、人の動きも、考えも。そして私たちも、様々な思想や、考え、生き方を模索しながら、生きています。しかし変わっても変わらないものは神の真理だけであって、わたしたちクリスチャンは、教会の礼拝に毎週、礼拝に集まるのは、そこに神の霊と真理、まことなる主イエス・キリストを礼拝するために集まるのです。ここに救いがある。私たちが、どのくらい善人なのか、どのくらい悪人なのかは問題ではない。問題は、真理の神に出会い、その方をまっすぐ信じて、その光を証する者として生きること、人生の決定的な新しい真の神との出会いです。この真の神―主イエス・キリストを信じ、新しい人生の扉が開かれますようお祈りします。

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