2024.10.13 「祈りの生活」 マタイ6章8-15節
今日は、「祈りの生活」と題して聖書の御言葉を学びましょう。私たちは、常に将来に向かって、何かを願い、祈ります。別にクリスチャンのみならず、全ての宗教でも、そして宗教とは関係がなくても日常生活の中で、何々を祈念するとか、ご多幸を祈っていますとか、このような祈りの言葉を口にします。つまり人間というものは、こうあって欲しいとか、そうなるようにとか、将来への希望として思いをはせるのです。
しかしながら、今日の聖書のテキストでは、天にいます神さまに祈る時に、主イエス・キリストは私たちにこのように祈りなさいと弟子たちに教えられました。それが「主の祈り」です。
ここでイエス・キリストが教える祈りの幾つかの特徴を挙げてみましょう。今日の聖書の箇所の前の部分には、こう記されています。まず第1に、人に見せる、聞かせるために祈るようなことをするな。誰にも気づかれないように部屋に入り、隠れたことを見ておられる父なる神に祈りなさい。そうすれば、父なる神は報いてくださるであろう。第2にはくどくどと祈るな。言葉数が多ければ聞き入られると思っているが決してそうではない。あなた方の父はあなた方が願う前から、あなた方の必要をみなご存じなのだから。
聖書に書かれている祈りとは、ただ私たちの願望とか、望みを祈る祈りとはまったく違い、まず神さまの御国を求め、神さまへの賛美から始まるのです。そして、神の御国がこの地上で成就するように、つまり今日一日が神の国と神の義を求めるところから始まりますように。すなわち「天におられるわたしたちの父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」
私たちは、常に自分の願いや、自分の幸福、自分の繁栄のために祈りがちです。それが私という単数だけではなく、私たちという言葉でも祈ることがあります。決してそれらは悪いことではありません。主イエス・キリストが先ほど言われましたように、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものはすべてご存じなのだ」とおっしゃっていて、だからこのように祈りなさいとここで語って下さるのです。そのためには自分はこうして欲しい、あれもこれもという思いを捨てて、最初に神の義と神の国を求めてお祈りをすることが大事です。何故なら、神さまはそれは後から付いて来るのだと語っているからです。また、会衆の祈りというものもありますが、それは個人ではなく、会衆の共通した課題のため祈る祈りですし、他者のための執り成しの祈りでもありますので悪いことではありません。でも基本的には、それらはみな、自分たちの益のためではなく神さまの三国を求める祈りなのです。
また最低限必要な、衣食住についてだけは、「わたしたちに必要な糧を今日、与えて下さい」と祈るように、主イエス・キリストはここで教えてくださいました。日ごとの糧は、生存するための必要なものです。将来を悲観したり、思い悩む前に、一日一日を感謝して神の国を求めること、ここに前進への第一歩があります。現在の日本では、いかなる人も、人の生きる権利として、最低限の衣食住が得られるように、生活保護法という法律が成立していて、誰でも申し込みの手続きをすれば命を繋ぐことができます。これは世界の中でも素晴らしい法律だと思います。私たちは、一羽のすずめさえ心にかけ、養う神さまを信じて、日々の糧を与えてくださる主に感謝しつつ、突然の病や、災難、事故に会うことが無いように、自分の生活が与えられるよう毎日、お祈りをしましょう。
そして3番目の祈りは、罪の赦しです。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人赦しましたように」。様々な宗教では、人々の願い事や、祈りを叶えてくださるご利益を願うことがお参りの中心テーマですが、反対に神さま側からみれば、私たちの心は常に自分の願いだけで一杯で、私たちの心が、神さまの前に閉じられている状態であることが、大きな問題なのです。つまり神さまと私たちの間に大きなギャップ、があるならば、それは神さまもその祈りに耳を傾けてくださいません。私たちの父なる神さまは、もっと寛大で、何でもおできになる方、恵みに富む方ですから、つまり何でも祈りに応えてくださるかたですから、その前に、私たちの重大なその過ちに気づかなければなりません。
ヤコブの手紙4章にはこう書かれています。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また熱望しても手にいれることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で求めるからです。」と記されているように、まず、正しい信仰心をもって、自分中心の願いを捨てて、神さまの御前で素直な気持ちになり、その態度を悔い改め、赦しを請い、また周囲の人々に対しても寛容な気持ちで、他者に対して、常に寛大であることを求められているのです。それが「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人赦しましたように」という祈りの真意です。
芥川龍之介の小説の「くもの糸」の話を御存じだと思います。仏さまが地獄で苦しんでいる人にくもの糸を一本垂らす。この男の人は自分が助かりたい一心でその仏さまの慈悲にすがりくもの糸をたどって上へと上へと極楽へと目指して登って行く。しかし、下を見ると、他の罪人たちが細い糸を次々と登って来るではありませんか。そのような大勢の人がぶら下がれば細い糸が切れてしまいます。そして下の人たちに向かって、「おい登ってくるな。糸がきれてしまう」と叫んだとたんに、その男の人もろとも、全員がまた地獄へと落とされるという物語です。この話は調べてみますと、ポール・ケイラスという西洋人が既に書いた話を、芥川龍之介が日本語版に改変したもので、その細かい部分はいろいろ解釈が判れるのですが、言わんとすることは、自分だけ救われようとする人の欲深さがここで表現されています。
聖書には、他者を測る量で、自分も測られると聖書に書かれています。人に惜しみなく与える人は、何倍も与え返されるとあります。私たちの内には本当に狭い、非寛容という壁があって、その壁は神様に祈る時にとっても大きな障害の壁となっているのです。
私たちの罪が、神様によって赦されるとは、無条件でただで赦されるのですから、相手にもただで赦す寛容さが必要です。聖書で言う罪とは、いつも自分中心という罪が、自分自身を不自由にしています。そこで神さまは寛容、寛大なお方ですから、あなたも隣人に対してそうしなさい。もし、自分の正しさだけを主張し、相手を赦す心がなければ、もはや神さまはその人の祈りを聴くことはありません。人とは自分が一番正しいと思って、人との争いを起こし、国と国の間での戦争を起こるのです。寛容な気持ちが必要です。
聖書のルカ16章には、不義なる僕が、主人のお金を管理していて、不正を働いたという物語がイエス様によって語られております。その僕は主人に罰せられる前に、主人に負債のある人々に対して、持っている借用書を書き直して、借金の減額を図って便宜を働きました。でも主人はこの不正を行っているその僕を見て、その僕を褒めたという物語です。聖書の中で不正を働く僕がどうして褒められたのでしょうか。悪知恵を奨励したのでしょうか。非常に理解に難しい箇所です。でも、この物語の主人が神さまだとすれば、私たちは、皆、寛大な神さまによって只で救いの恵みを頂いたのに、その感謝を忘れていて、他の人の罪を裁くようなら、主人は怒って、その僕を牢獄へ入れてしまうと別な物語でイエス様は言われました。でも、この僕はその頂いた只で頂いた恵みを用いて、周囲の人々の負債を帳消しに歩きまわったのです。人々は、その僕に感謝し、またそれを見過ごしてくれた主人にも感謝するでしょう。つまり、自分が只で与えられた神の愛をもって人々の罪を赦す恵みは、神さまからみれば、恵みの乱用で不正行為ですが、多くの人々が、神の大きな愛を受け取ることができれば、それはとても喜ばしいことなのです。つまり私たちは神の愛を証し、只で頂いた恵みをもって、周囲の人々に神の愛を分け与えることは、素晴らしいことで、これは、神さまの御名を褒めたたえることなのです。
ですから「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人赦しましたように」という祈りは、非常に毎日の生活の中で奥深い神の国へと通じる福音が隠されている、それは大変、重要な祈りなのです。私たちの信仰は全ての人に寛容であることが大事です。
自分のために、自分の願いだけを祈るということは、大きな損です。まず、神様の前でそのように閉ざされている心をまず打ち砕くこと。私たちの心の内にある自分中心の罪を取り除き、神さまの前で悔い改め、そして他者にも心を開き、他者のためにも赦しの恵みを祈ることは何と素晴らしいことでしょう。
ある若者がアメリカに行けば自分は成功すると思い、必死の思いで、節約してお金をため船にのり、人々を避けて、食事もなるべく我慢しておなかをすかしながらアメリカの地に着きました。そしてようやく船を降りる時になって、私のお食事代はいくらですかと尋ねますと、船内の食事は全部ただですよと言われたそうです。何と几帳面で、一生懸命がんばったこの若者は、自分のことだけ案じていたがゆえに、何と損をしてしまったことでしょう。この滑稽さは、私たちの神さまがどのようなお方であるのか知らず、他者に寛容でない生き方の人を表しています。
最後の4番目の祈りは「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」という祈りです。誘惑とは、一番、恵みと祝福の生活の中に忍び込んで来ます。旧約聖書の中に記されているダビデ王は、国が安泰し、もっとも安定した時に誘惑に負けてしまいました。ソロモン王は若い時は、信仰を中心とした神のみ旨を行う生活をして祝福されましたが、歳をとるにつれその繁栄の中で、信仰の道を失いました。私たちは、ここでまず自分の神の恵みや祝福を求める祈りではなく、神の御心と神の御国を求める祈りの重大さに気づくでしょう。私たちは、日々、十字架の罪の赦しの恵みに与っていること、寛大な心を持って隣人のためにも赦しを祈り、サタンの誘惑から守られますように祈ることは大切なことです。
ルカ福音書6章には、「あなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。あなたがた、今、満腹している人たちはわざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。人が皆、あなたがたを褒めるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。」
私たちは本質的には弱い人間存在なのです。たとえ強い意志、強い信仰、恵まれた環境があってもそれを支えている土台は弱い心の上に立っているのです。だから主イエス・キリストは人前で祈るより、まず隠れた部屋に行って一人で隠れた神に祈りなさいと言われているのはそのためです。信仰というのは、心の底で神さまとお話をするところから成長するのであって、神さまの深いみ言葉に触れ、神の御声を聞くところから始まります。私たちの主イエス・キリストが私たちの罪のため十字架にかかっているその前で、私たちは神さま私のこの願いを叶えてください、こうしてください、ああしてくださいと祈ることができるでしょうか。むしろ私たちのために苦しみ贖いの業をなしてくださる十字架の前で、私たちが何も誇るべき祈る祈りの言葉はありません。僕は聞きます。今、あなたの御心、み旨を教えてください。お話ください。そしてその時、与えられた神さまからのメッセージこそ、一生を支える宝となるでしょう。それは天国に通じる宝となって行くでしょう。
最後に、私は個人で祈るときには、5つの要素を祈ることをしています。まず「神に賛美」を、2番目に「神の恵みに感謝」を、3番目に「日々の悔い改め」を、4番目に「他者、隣人への執り成し」を、最後の5番目に「日々の糧のために」。手には5本の指がありますので、忘れたら何が抜けているか思いだしてお祈りすると良いと思います。そうすると忘れたころに神様からの大きな贈り物が後から付いてくるでしょう。
今日は、主の祈りについて学びました。祈りは神に対して祈る祈りであること。そしてみ言葉を通して私たちの心の深い部分、弱い心の中で御声を聴くことなのです。