ローマ4:13-25
旧約聖書に出てくるアブラハムという人物はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の信仰の父です。それ故に、現在のイスラエルの国の首都、エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地、巡礼地となっております。この3つの宗教で全世界の人口の約6割以上の人々が、アブラハムを信仰の父、つまり自分の信仰の「祝福の系譜」として信じており、エルサレムの街はそれぞれの宗教によって、お互いに分割所有されていて、イスラム教徒にとっては、アブラハムは、サラから生まれた息子イサクではなく、ハガルから生まれた息子イシマエルを神に捧げたと信じており、しばしば写真で見る金色に輝く大きなモスクがその建物となっています。ユダヤ教では、ダビデ王とソロモン王が建てた神殿や城壁とか、また預言者が活躍したユダヤ全土が、神から与えた約束の地ですから、2000年前に遡り土地所有権を主張しております。キリスト教では十字架にかかって亡くなられたエルサレム市街地と聖墳墓教会、東パレスチナ領内にあるキリスト生誕の地ベツレヘム、そしてイエス・キリストが伝道したガリラヤ地方が巡礼地となっています。このようにエルサレムが巡礼の地といっても、それぞれの宗教によって巡礼する場所が異なる訳で、ただ共通するのはアブラハムが自分たちの信仰の祖先であり、この土地に住み、その神からの祝福を受け継いだ最初の人物として神様から与えられた「祝福の系譜」を信じている訳です。
このアブラハムという人物は紀元前1500年以前の人で、現在のメソポタミア文明、イラクのウルに住んでいた人ですから、現代で言えばイラク人です。お父さんの名前は、テラ、その子供は、アブラム(後のアブラハムに改名いたしますが)、ナホル、ハランの3兄弟です。次男のハランは早く亡くなりました。長男のアブラムとその妻サライは、お父さんのテラと、次男ハランの子、甥のロトを連れて、生まれ育ったウルからユーフラテス川を遡って旅にでました。全財産を背負いながら、現在のシリアのハランという町にまで行きますと、そこでお父さんテラは亡くなりました。その時、アブラムは初めて神様の声を聞くのです。「私は主である、私の示す地に行きなさい。そこであなたを多くの国民の父とする。そしてあなたを祝福の基とする。」そこで今度は南に下り、現在のエルサレム地方にたどり着き、アブラハムはこの地こそ神様が約束した土地であると確信し、そこに祭壇を築き、神を礼拝したのでした。
なぜこの地なのか。丘と山だけの何もない場所です。ただアフリカのハム種族、アジアのセム種族、地中海西側のヤペテ種族、この三つの種族が行き交う場所が、このカナンの地と呼ばれる場所でした。今年のノーベル賞で人類の起源をDNAで調べた方が受賞されましたが、ホモサピエンスという私たち最初の人類は、タンザニアで最古の骨が発見されており、女性の骨でエバという名前が付けられています。そこからアフリカ内はハム族、ヨーロッパへ移った人種はヤペテ族、アジアへ移った人種はセム族と呼ばれていてDNA検査でその流れは立証されております。旧約聖書の創世記5章32節によれば、ノアはこの3つの種族となるハム、セム、ヤペテを生んだ後、ノアの子供夫婦6人と共に、箱舟に乗り、人類は洪水で全滅したので、全人類私たちはノアの3人の子供から分かれたという創世記の記事と不思議にも現代のDNA検査の話が大体一致したことになります。しかしノアの記述は有史以前ですので、定かではありませんが、アブラハムの子供の一人はセム族の黄色人となり、イエス・キリストもユダヤ人の黄色人となります。エデンの園の楽園はアフリカで、タンザニアかもしれません。私は何回か訪れたことがあるのですが、日本の国ぐらい広い自然動物公園がたくさんあって、今もライオン、キリン、カバ、あらゆる動物が一緒に住んでいてエデンの園のように今も見学することができます。
最初に神から祝福の約束を受けた場所や年代などが判る有史として登場するアブラムは、初めは御声を聞いて旅に出たのですが、彼が信じている神は目に見えないけれども、世界を支配する全地全能の神であることを知ります。そして、その神と信仰の契約を交わしました。あなたの子孫は将来、星の数のように増え、あなたを多くの国民の父とすると言う約束です。アブラムはその時以来、アブラハムと改名し、経済的にも少しずつ豊かになり、富を蓄え使用人をたくさん抱える豪族の一人となりました。ところが妻のサライとの間には子供が生まれない。この約束があるにもかかわらず、このままでは一代で終わってしまうのではないかという危惧が出て来ました。アブラハムは神様と約束した祝福を、このまま信じてよいのか、信じられないものか、歳を重ねるごとに心の中で煩悶を繰り返したのです。妻サライも、自分もう子供を産めない年齢だと知っていましたので、世話係のハガルに夫の子供を産むように勧めました。
皆さんも、目に見えない神様を信じていて、祈りが聞かれなかったとしたら、どう考え行動しますか。人間的な知恵回しをするでしょう。アブラハムも全く私たちと同じ人間でした。そしてハガルからイシマエルという自分の子供を授かる。でも神様は、そのようなアブラハムの不誠実な行動にも関わらず、神様の約束を守られ妻サライからイサクという子供が与えられるという奇跡が起こりました。サライはこの神様の約束を神様のたわいごとですねと笑ったことから、サライの名前はサラ(笑う)に改名させられたと聖書に書かれています。しかしこの時のごたごたによって、先に生まれたイシマエルはアラブ人の祖先となり、イサクはユダヤ人の祖先となり、その跡目争いが今日に至るまで続いているのです。
さてここで一つ学びたいことは、アブラハムもサライも現実は神様の約束は成就しないと思ったにもかかわらず、神様の方は、決して約束を反故にされなかった。それを新約聖書のローマ書では、アブラハムは信仰の義によって恵みを受けたと、書かれていることです。つまり、神様の約束は、たとえ私たちが不誠実であっても、神様には嘘や偽りがないということです。何故なら、私たちは自分の正しさで義とされるのではなく、その約束は神を信じたアブラハムに神の恵みとして与えられたからです。サライも、そんなことは無いでしょうと笑ったにも関わらず、神様はその約束を与えてくださいました。だから私たちも、たとえ疑うようなことがあっても、神様の救いのご計画は必ず成就されることを信じ続けることが大切なのです。これが「信仰による義」、「神様の恵みによる救い」だと使徒パウロは述べているのです。それ故にアブラハムとサラはどんなに、どんなに神様に感謝したでしょう。そしてアブラハムも。柔和で、争わず、甥のロトに一番良い土地を与えたり、見知らぬ旅人をもてなしたら、それが神の使いであったり、ソドムが滅びる時に一人でも助かるように神様に憐みを求めたり、また10分の1の捧げものを祭司メデキゼルクに感謝した最初の人でした。イエス・キリストを信じる私たちも信仰生活には紆余曲折がありますが、神様との約束に繋がっていることが大事です。今まで教会を休んでいた人も、信仰が冷めてしまった人も、神様の方は誠実な方で、神様の約束した恵みは必ず成就されるのですから、常に信仰に戻ることが大事です。実際、アブラハムは、息子イサクを与えられましたが、その時は星の数のような子孫は見ませんでした。でも神様はそのアブラハムとの約束を果たし、その子孫は今では数え切ることはできません。私たちの伝道の働きも教会も、将来、皆さまが信仰を続けることによって、将来10倍も、100倍もたくさんの人々が祝福される系譜の一人であることを信じて参りたいと思います。
こうして、神様はアブラハムに約束通り跡継ぎのイサクを与えてくださったのですが、一つだけ、神様はその後のアブラハムの真実な信仰を知りたいと考えました。アブラハムは神様のこの恵みを本当に理解して感謝しているだろうか、その真実を知りたかった。そこで、新共同訳聖書は、「神はアブラハムを試された」と記されています。これは、神様がアブラハムに罪を犯すように誘惑しているのではありません。アブラハムの真心、真意を知りたかったのです。そこで少年となった息子イサクを神様の前に燔祭の供え物として捧げよと命じたのです。これは驚くべき申し出です。当時このような捧げる仕方があったのか、おそらく先にも後にもなかったでしょう。たった一人のお方以外には。一番、アブラハムにとって大事なものは、跡継ぎのイサクであったので、あなたの一番大事な物としているモノを神様に捧げよという意味だったのかもしれません。一番大切なものを神様に捧げよと言われたら、私たちもドキドキしますね。でもよくよく考えてみれば、その息子イサクさえも、実は生むことができなかった子供を恵みとして神様から頂いたものを返すのですから。けれども、アブラハムは心の中で煩悶を繰り返しました。何故、神様はそのようなことを要求するのだろう。3日間モリヤの周辺を何回も行ったり来たりしたかもしれません。沈黙の日が続きました。ところがアブラハムと一緒にいるイサクが尋ねるではありませんか。お父さん、「火と薪はここにありますが、焼き尽くすいけにえの子羊はどこですか。」アブラハムは本当に困ってしまいました。そこで「息子よ、焼き尽くすいけにえの子羊は神ご自身が備えてくださるだろう」と答えるのがやっとでした。でも代わりの子羊などいない。そこでアブラハムは、モリヤの頂上へ重い足を引きずってたどり着くと、あとは全てを神様に委ねて、イサクを縄で縛りイサクを捧げようとしたのです。それを今日の聖書の箇所は、神様は全能の神様なので、たとえ死んでもアブラハムは神の復活の力を信じていたからだと説明をしています。つまり、無から有を、死から命を与え得る神様を信じたので、神様はそのアブラハムの真実な信仰を知った時、すぐイサクを捧げることを止めさせました。そして山に迷い込んだ子羊をその代わりとして捧げるように命じ、神様とアブラハムの信頼が完全に一つとなった時に、アブラハムの祝福の系譜が、更に確かなものとなったのです。そしてその場所は「主の山に備えあり」(ヤハウエ・イエル)と呼ばれたということです。
アブラハムの信仰を新約聖書はどのように理解したのかローマ書4章22節から読んでみたいと思います。
「神は約束したことを実現させる力も、お持ちだと確信していたのです。だからまた、「それが彼の義と認められた」のです。しかし、「それが彼の義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけでなく、私たちのためでもあります。私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じるわたしたちも、義と認められるのです。イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたのです。」
何とこの父親が子供を燔祭に捧げるという行為は、聖書の中で、アブラハム物語以外に一つだけあると申しましたが、それは父なる神様が、その独り子なるイエス・キリストを私たちの罪を取り除くために、十字架への死へと差しだした。そして御子イエス・キリストは三日後に復活されたという出来事です。
主の山に備えありとは、そこに子羊が迷い込み、アブラハムはイサクの代わりにその子羊を捧げたこの物語の背後には、神様はご自分の御子を十字架上に、贖いの供え物として捧げてくださったという神様の愛と恵みが隠されているのです。アブラハムには、息子イサクを捧げる必要はなかったのですが、神様の深い愛をアブラハム自ら体験をすることによって、彼は神様の祝福と恵みの深さを理解し、更に自分に与えられた恵みを本当の意味で理解して感謝したことでしょう。
たとえどんなに祈っても祈りが聞かれないとしても、実は神様の方が私たち以上に苦しまれ心配され、私たちをどんなに愛してくださっているかを知るということは、私たちの信仰告白であり、神様のご計画は計り知れないものであることを知るのです。どんなに信仰を続けても状況が良くならないこともあるでしょう。それでも私たちは全能の神を信じて信仰の山に登るのは、その頂上にイエス・キリストの贖いによる神の愛があり、主が私たちのために血を流されたことなしにこの祝福の恵みはありえなかったことを知るということ、これが私たちの真実な信仰告白であり、証なのです。これによって神様の本当の愛を理解し、心からその救いを感謝する者となることができるでありましょう。私たちが信仰の山に登るということは、イエス・キリストの贖いの供え物に感謝して登るということです。その登り詰めた場所には、最高の祝福と恵みが用意されているからです。
私はカトリックの3大巡礼地の一つであるサンチェゴ・コンポステーラという場所への巡礼旅行を計画したことがあります。30名近くの人々とカトリックの大祭司に団長になって頂き、巡礼の旅に出かけました。場所はスペインの西にある古い町でイエスの弟子で最初の殉教者、ヤコブの遺体がここに埋葬されたという伝説によって、4世紀ごろから今の時まで長い間、カトリックの巡礼地となっている町です。巡礼者はその街から200キロ離れた場所から、徒歩で10日間ぐらい歩いて訪れるのが習わしで、私たちは日程が限られていましたので車を使いましたが、途中で立ち寄る場所で必ず大司教様がミサを行いながら進む。そして私たちが目指すのは、殉教者ヤコブのお墓をお参りすることではなく、御子イエス・キリストが私たちのために血を流された父なる神の愛を知ることによって。殉教者ヤコブを慕うと申しましょうか、この巡礼の目的はこれ以外の何モノでもないことに気づくのです。殉教者ヤコブが可哀そうなのではなくキリストの愛に包まれている姿を想像したことです。
私たちがキリスト者として受け入れた救いの恵みと祝福は、イエス・キリストを通して全ての人にアブラハムの祝福が継承されたことを聖書は告げております。
このようにしてヨーロッパに住むヤペテ種族のギリシャ人、ローマ人にも、ヨーロッパからアメリカに住む人にも、アフリカのハム種族にも、アジアのセム種族にも、そしてこの日本にも、イエス・キリストを信じる人へと祝福の約束が今やもたらされました。私たちはこの祝福の系譜を心から感謝して、アブラハムの祝福を受け継ぐ者として歩んで参りましょう。皆様の上に恵みとの祝福が豊かにありますようにと心から感謝しお祈りしたいとおもいます。