ヨハネ1章29-34節
今日は、アドベント待降節4週目を迎えます。イエス・キリストの到来は旧約聖書にメシアの到来として告げられていましたが、クリスマスを前にしたこの日曜日礼拝では、その救い主の到来の意味を深く考えながら、祈り心を持ってクリスマスの時を待ちたいと思います。イエス様はイエス・キリストと呼ばれましたが、キリストとはギリシャ語のメシアです。メシアの意味は油注がれた者、神から祝福を受けた特別な者という意味ですが、ユダヤ教では救世主、救い主という意味でした。そのメシアを長い間、待ち望んでいたのが彼らの信仰でした。
新約聖書のヨハネ福音書を読みますと、先駆者バプテスマのヨハネは、イエスが彼のもとに来るのを見ると、イエス様を「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と叫ばれました。「神の小羊」とはどういう意味なのでしょうか。小羊とは、当時、罪の汚れを取り除くために、まだういういしい無垢なかわいい小羊を、捧げものとして焼き尽くすことによって、人々の罪を取り除くという信仰をユダヤ人たちは持っておりました。つまりバプテスマのヨハネがイエス様を見たとき、イエス様は神の子でありましたが、人々のために罪の贖いの供え物とするために、この世に来られた「神の小羊」であることをここで強調したのです。
この小羊を捧げるという行為は、ユダヤ教を成立させたモーセの時代まで遡ります。年代は特定できませんがユダヤ教が成立する前、約紀元前1500年ぐらいになるでしょうか。3500年前の出来事です。
出エジプト記に書かれたその個所を読んでみますと、
奴隷状態のイスラエルの民がエジプトを脱出する時、「家族ごとに小羊一匹を用意しなければならない。・・・その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。・・・イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入口に二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。・・・・それを食べる時は、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして、急いで食べる。これが主の過ぎ越しである。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの全ての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血をみたならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を打つ時、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。」。
つまり主の過ぎ越しの日とは預言者モーセが数多くの奇跡を行いましたが、エジプトからイスラエルの民を解放するために最後の奇跡を行ったのが、この死の使いが過ぎ越すという奇跡でした。そのためには、まず小羊を屠り、家の入口の二本の柱と鴨居にその小羊の血を塗りなさい。死を司る主の使いが、家々を通り過ぎる時、その小羊の血が家の入り口の柱と鴨居に塗られている家は、死を司る主の使いは通り過ぎ、塗られていない家は、必ず、家族の長子たるものが死ぬという神の裁きでした。そしてエジプトの家々にその死を司る主の使いが訪れると、家族の長子に死を与えて裁かれたのです。エジプトの王の長子もなくなりました。けれどもあらかじめ小羊を屠り、その血を入口の二本の柱と鴨居に塗ったイスラエルの家族は、その災いから皆、救われ、エジプトを脱出できたという出来事です。つまり過ぎ越しの祭りとは、死の使いが、羊の血が塗られたイスラエルの家を通り過ぎて、神に裁かれず、彼らが救われたとことを祝う祭りで、イエス様の時代までその祭りが継続されていたのです。
何故、日本の神社の前の門、二本の柱と鴨居が赤く塗られているのか、それはユダヤ教徒たちが国を失い世界に散らばったとき、そのシルクロードを通って、ユダヤ人の一族が、京都にたどり着き、ユダヤ教の習慣を、悪魔除けとして伝えたのではないかとの説がありまして、事実は定かではありません。
けれども、私たちクリスチャンにとっては、イエス様が、この過ぎ越しの祭りに、十字架にかかる前の最後の晩餐で、ご自身が流される血を表した葡萄酒と肉体を裂かれたパンを食するように主の晩餐を命じられたのは、この過ぎ越しの祭りの儀式では動物の小羊を殺し屠りましたが、イエス様が与える神の救いは、イエス様ご自身が神の小羊となって、私たちのために血を流し罪の赦しと救いを与えてくださったことを意味しています。だからクリスチャンにとって過ぎ越しの祭りはもう必要はありません。それは神がイスラエルの民を救われた過ぎ越しの祭りはあくまで救いの予型、模型であることを示し、イエス様ご自身が全人類の罪の贖いのため流された血と、裂かれた肉体が、私たちの救いのためであることを教え、私たちが神の罪の裁きから救われ、罪の状態から解放され、素晴らし神の恵みとして、永遠の命を与えてくださったのです。
「神様は独り子を賜るほど、この世、私たちを愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」。誰が、罪びとを救うために、命を捧げて下さったのですか。動物の小羊ですか。大統領の護衛官は、大統領が殺されそうになったら、自らの命を投げだすかもしれません。或いは国を守るために命を投げだす人もいるでしょう。しかし滅びに定められた罪びととして誰も振り向かない私たちのためにイエス様は命を投げだされ、私たちを救われたのです。そればかりかイエス様はその死より復活され、私たちが死なない命、永遠の命を与えるために神の永遠の命をお与えくださったのです。これが聖のが伝える救いの福音です。是非一人でも多くの方が、このクリスマスの時に、この主イエス・キリスト救いを信じて心の中にイエス様を受け入れ、神の愛と復活のキリストの命を受け入れてください。
さて新約聖書の中では、「神の小羊」はこのヨハネ福音書で2回出てきますが、その他に、キリストを「小羊」と呼んでいる個所があります。コリント第1の5章7節「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」とあります。ペテロ第1の1章19節には私たちが救われたのは「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」の2か所。そして、黙示録ではキリストを全部「小羊」として表現し、35回にわたり紹介され、合計すると新約聖書には39回出て参ります。
旧約聖書では、イエス様は存在しませんから、有名なイザヤ書53章7節だけはこのように記されております。「彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」とあり、これはイエス・キリストの出現を預言した唯一の箇所として、メシアを「屠り場に引かれる小羊」として表現しております。イザヤ書はこのようにして、神の子メシアの出現は、その人生の目的が、全人類を罪から救う供え物になるための神から遣わされた救世主、救い主として預言したことが判ります。
そしてその一部始終、イエス様の十字架も復活も経験し行動を共にした使徒ペテロが叫んだように「この人もよる以外に救いはない。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。主イエス・キリストこそ、人々の罪を死をもって贖い、復活を通して、私たちに永遠の命を与えるためにこの世に来られた方であることを確信するのです。
使徒信条にはイエス様の生涯をこのように記しています。
「我は天地の造り主,全能の父なる神を信ず。我はその独り子,我らの主,イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり,処女マリヤより生まれ,ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け,十字架につけられ,死にて葬られ,陰府(よみ)にくだり,三日目に死人のうちよりよみがえり,天にのぼり,全能の父なる神の右に坐したまえり。かしこより来りて,生ける者と死ぬる者とを審きたまわん。」
これが一番簡潔な初代クリスチャンが確信した教会としての信仰告白です。
さて来週は、イエス様が赤ちゃんとしてマリヤ様から生まれたことをお祝いするクリスマスを迎えます。「主は聖霊によりてやどり,処女マリヤより生まれ,」という最初の出だしが始まります。ではその後の生涯はどうだったのかは、キリストの誕生後、少年イエスが宮参りをしたこと以外に聖書は何も記しておりません。約30歳ごろ、イエス様が福音宣教を開始して3年間の宣教活動以外、全てが抜けていて、何の生活記録がないのです。
ただ聖書を読んで私たちが判る範囲は、イエスの母はマリヤ、父はヨセフ、そしてマルコ6章には「この人は大工ではないか。マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。また姉妹たちも、ここに私たちと一緒にいるではないか」とありますので、最低兄弟4人と姉妹2人以上がいたことと、少なくともイエス様を入れて9人家族以上だったことです。父のヨセフは少年時代に登場するだけで、その後に子供が6人生まれていますので、イエス様が成人したころには、父ヨセフは他界し、母子家庭の長男として家族8人を抱え、10年近く大工として生計を養い、一番下の弟か妹が13歳以上になったころ、始めて自分の家を出て、公の伝道生活に入られたと推測されます。8人家族を養いながら長男のイエス様には大変なことだったと思いますが、いつどこでイエス様は聖書を学んだのでしょうか。ナザレの町のシナゴグと呼ばれるユダヤ教会堂には巻物の聖書が置かれていましたので、毎週、土曜日ごとに聖書の話を聞いて学ばれたと考えられます。公の伝道を始めたころ、家族はびっくりして出家したイエス様を家に戻させようとした記事もヨハネ福音書に書かれています。次男のヤコブは、兄のイエス様のことを一番良く知ってしていたのかもしれません。後に、エルサレム教会が誕生した時、弟子のペテロとイエス様の弟であるヤコブが教会の長老となって、初代教会を支えたと書かれています。
でも僅か3年の間の宣教活動で、全世界を揺り動かし、多くの人々に神の教えをなし、奇跡を数々行ったイエス様の生きざまは、到底、普通の人が無しうることではないでしょう。人々の中には、神の本性を疑う人もいました。大工のせがれではないか。預言者ではないか。
でも現在でも、福音書を読めば、どの宗教家も聖職者も真似ができるものではありません。彼は神から生まれ、初めから人となられた神の御子でなければ、これほど数多くの教え、奇跡、癒しの働きを僅か3年間ではできません。丁度コロナ感染が始まって3年となりますから、この本当に短い期間に、福音書で書かれた全ての出来事が起こったのです。そして神の愛と救いは何かを示された。その目的は最終的に全人類の罪贖いと、罪の赦し、永遠の命と救いを私たちに与えるためであり、それが神様から遣わされた神の御子としての使命でした。例えば夏に鳴く蝉の生涯のようです。蝉は幼虫のまま7年間土の中で暮らし、最後僅か7日間だけ、蝉の形になって飛び回り、死にます。最後の7日間だけが蝉としての本当の姿を現します。まさにイエス様は30年間、家族のために大工として働き、残りの3年間を神の御子として神の救いを宣教され、自らの贖いの業と復活を通して、天に昇られました。日本のかぐや姫の話にっ最後は少し似ておりますね。
つまり、イエス・キリストは宣教活動を始めた時には、既に、全ての人々の罪を背負い、全人類の罪を贖うために自ら進んで贖いの供え物となられることを知っておられました。そして人々に排斥され、人類を代表して罪の贖いの目的のために死に、復活することも知っておられました。それはユダが裏切ったからでもなく、祭司や律法学者たちがイエスを殺させたのではなく、ピラトが不公正な裁判を認めたからではなく、自ら、神の小羊としてこの世に来られ、進んで屠られた神の小羊である使命を成就するために来られたのです。
私たちは、このようにして福音書を読み、イエス様の贖いをなされた救いの働きを知り、イエス様の贖いを信じることができるのですから、このイエス・キリストを受け入れ、真実と真理によって、信仰の道を一直線に歩もうではありませんか。そこには全ての疑いが取り除かれ、神様の愛と恵みの力を知り、希望と喜びに満ちた人生が待っております。ローマ人の手紙5章8節には「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに神の愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」
口語訳聖書では最後の文章は「わたしたちは神を誇りとしています。」ではなく「わたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのです」。とあります。今までの人生を何とか送ってきたひともいるかもしれません。でも神を誇りとし、神を喜ぶクリスチャン生活を始めることは、どんなに感謝なことなのでしょうか。使徒パウロは何も旧約聖書もユダヤ教も知らない、ギリシャ人やローマの人々に一生懸命、この福音を薦めました。使徒パウロ自身は、イエス様に会ったこともありません、イエス様の伝道を見たり、聞いたりしたこともありません。そしてキリストの十字架の死に立ち会ったわけでもありません。ただ、神の子と呼ばれるイエス様が十字架で死なれたのは、自分の罪のための死であることを深く示されたとき、そこに神の御愛を感じ、復活したイエス・キリストの神の救いと神の命、喜びが沸き上がり確信したのです。使徒パウロは心から回心し、その迫って来るキリストの愛に押し出されて、神によって遣わされた宣教師となり、この救いをギリシャ人、ローマ人、異邦人に宣べ伝えたのです。そうしましたら、旧約聖書を知らない、ユダヤっ教も知らない多くの異邦人が、使徒パウロと同じように回心したのですから、ユダヤ人クリスチャンは驚きました。どうしてユダヤ教を知らない異邦人が神様を信じるようになったのか。それは使徒パウロが、常にキリストの十字架とその復活が、私たちに新しい神の命を与える神の救いであると信じたからです。聖書の最後の黙示録21章には最後に神の国に入る者は、誰か。それは「小羊の命の書に名が書いてある者だけが入ることができる」とあります。
クリスマスは、神が御子イエス・キリストを私たちに賜った喜びです。でもそれ以上に私たちがこの主イエス・キリストの救いを信じて、神の御元に立ち帰る喜びは、もっと素晴らしい喜びとなることでしょう。