第24回 断食祈祷聖会 2022.01.11 渡部 信
皆様こんにちは。
今日は。断食祈祷聖会実行委員会主催による、第24回断食祈祷聖会2022を、このようなYOUYUBEで配信できる機会が与えられましたことを神様に感謝いたします。
過去4,5年前に、私は一度、この断食祈祷聖会に招かれて、お話をさせて頂いたことがありますが、新宿にある教会を会場に、参加者はタイトルの名の通り、新年の始めに食事を抜いて礼拝、説教、そして祈り、講演、そして祈りを朝から夕まで連続集会を行い、3日間通して日本のキリスト教会の前進のためお祈りを捧げるという聖会です。主催者を始め、参加する人々の熱い祈りを感じさせる日本の教会、教派を超えた集会です。今回はこのコロナ禍の中、やむなくZOOMによる短縮のプログラムとなりました。
余談になりますが、私は2018年に、一度、中南米のトリニダード・トバゴというカリブ海の国で、中南米に点在する教会の牧師、宣教師、指導者のための修養会に参加したことがあります。この修養会は断食聖会ではありませんでしたが、三度の食事以外は1時間半ぐらいの集会が次々に行われ、何と3日間で18回の集会が行われました。一切、会議とか親睦会などはありませんでした。ただ礼拝を中心に、み言葉による説教、伝道の証、聖書の講演など、次々に行われ、本当にペンテコステの日が来たかと思われるほど参加者全員の信仰がリフレッシュされた恵みの体験となりました。まず、そこでキリスト者は、神様のために聖別された時間をたくさん持つということが、重要だと思います。そこに集まった教会の牧師たちは、教会を一つ建てると、すぐ地域に家庭集会をたくさん造り、その家庭集会から10の伝道所を立ち上げ、数年後にはそれらの伝道所が10の教会となり、またそこから何10倍の教会を生み出すのです。ブラジルの国を訪れた時も、バプテスト教会の夜の礼拝に出席したことがありますが、夕方から始まって、賛美や、証、説教など次々にあって、もうそろそろ終わりかと思えば、それが延々に続く、夜11時になっても終わらない。誰も帰ろうとしない。南米ならばのプロテスタント教会の勢いのすさまじさをそこに感じました。そのようなエネルギュッシュな教会の1つにニバーサル教会と言う名前の教会があり、そこに招かれ見学をしたことがあります。1教会から100万人のクリスチャンを生み出したそうです。それと比べると、日本のクリスチャンは礼拝の説教が30分でも長すぎるという不満を抱くことがしばしばあります。長ければ良いということではありませんが、デボートする、つまり専念するこのような断食祈祷聖会は、恵みに浴する機会として今後も是非、存続してもらいたいと思っています。今日は、1時間弱の時間を頂き、「コロナ後の宣教」について信仰の観点からお話をさせて頂きますので、よろしくお願いします。
今回の「新型コロナ」とは新型のインフルエンザのことで、毎年、冬になると流行する風邪の一種です。最近の大型のインフルエンザは1957年の中国発のアジアインフルエンザと、1968年に流行した香港インフルエンザです。アジアインフルエンザは全世界に流行して、約200万人が亡くなりました。後者の香港インフルエンザは、前者よりも小規模で、死者は世界で約100万人と推定されています。両者とも殆ど2年間で収束しています。今回のコビット19の新型コロナは、既に感染拡大が始まってから2年間になるので、これで収束するのかどうか分かりませんが、現在での世界の死亡者数は530万人と過去、戦後の2つと比べると大型で、より強力になります。
初めこの新型コロナのニュースに接した時に、むしろ今から100年前に大流行したスペイン風邪とよく比較されました。時代は第一次世界大戦の最中の1918年ヨーロッパを中心に流行し、それが全世界に伝わり、罹患者数は世界人口の3分の1の5億人に達しました。死亡者数は4000万人と推定されています。スペイン風邪は今回の新型ウイルスに比べて更に超大型で、日本国内での記録によると約25万人の人々が亡くなったそうです。当時の日本の人口が半分の6000万人と言われていましたので、現在の人口でしたら50万人の死亡者数となるでしょう。今回の新型コロナの日本における死亡者数は、現在、約2万人ですから、それと比べるとほぼ最小限に感染が抑えられていると考えることができます。
このような目に見えないウイルスの流行による感染は、日本語では疫病という言葉で、古い昔から存在した災害の一つとして、聖書の中でも記録されており、しばしば登場して参ります。特に旧約聖書では、3500年前の出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、そしてサムエル記上下、列王記上、歴代誌上下、詩篇、箴言、エレミヤ記、エゼキエル記、ハバクク書、ゼカリヤ書、エズラ記など、多数の箇所で言及され、それは神が起こされる災害として理解されています。3つの代表的災害は、剣、飢饉、疫病と聖書の中では並列に記されていることが多く、戦争で滅びるか、飢饉で滅びるか、疫病で滅びるかということです。しかしながら疫病だけは、目に見えない細菌による伝染病でしたから当時の人々にとってはもっとも原因不明の不吉なものだったにちがいありません。誰でも思い出すのは、ダビデ王が神のみ旨に背いて、イスラエルの兵士の数を数えた時、預言者ガドによって、神の怒りとして3つの災害の選択肢をダビデ王に示されました。7年間の飢饉か、3か月の敵の侵略か、3日間の疫病か。その時、デビテ王は、3日間の短い疫病を選択したという記事が載っております。確かに疫病は一時的に猛威を振るいますが、期間は比較的に短く、あのスペイン風邪も、大体2年間で自然に収束しました。一説によりますと、コロナウイルスへの抵抗力が生まれ、それは免疫力として蓄積されていく。またコロナウイルス自体も変化するたびに弱体化するという説がありまして、医学的にも証明されているそうです。つまり疫病はいつまでも延々と長くは続かないということです。
そして、今回のこの講演の課題である「コロナ後の宣教」を、お話をするにあたり、まず私たちはこのコビット19の新型コロナの世界的な流行をキリスト者としてどのように理解し、後に訪れるコロナ後の宣教をどのように提唱するのかということが、今回のお話の目的です。これを単に、自然災害と捉えて自然科学的に、或いは技術的な対処法を述べても、私たちの信仰の観点から言えば、焦点がぼけてしまいます。今回のコロナ禍のAIは皆が飛びついた一つの非常用の道具で、どのように用いて行くかはこれからの課題でしょう。前日の講演でAI技術の活用のお話がでました、これはコロナの流行前から、英語圏では既にビデオからCD、そしてTVのネットからインターネットによる福音メッセージに切り替えていて、5年前に私が初めて出会ったこのグローバルチャーチネットワークでは、10年間10億人の新しいクリスチャンを求めて動きだしました。
私はその世界中からの指導者が集まる集会に出たことがあるのですが、日本人は私一人でした。またニューヨークのタイムズスクエアに大きな教会があり、毎晩祈祷会をしているということでそこにも出席したことがあります。やはりネットによって他の教会と繋がっていて、殆ど伝道目的のための役割を果たしています。オーストラリアのヒルソング教会は、自分たちの集会を全世界へネット配信しており、会場には5万人近い人々が出席していました。それは今後における日本のAIをどのように活用するかは技術的な戦略だと思いますので、これ以上は割愛します。また医療的な解決や、社会活動の再開や、経済活動の救済という側面も、別な政治的な、或いは行政的な次元の話となりますので、それも割愛させて頂き、キリスト者の信仰の課題として、何が今の緊急の課題なのか。何が足りないのかに関するお話をしたいと思います。
まず、このような疫病と言われる災害に対する私たちが持つ恐怖感や危機感についてどう理解するべきか。もう悪い話は聞きたくない。早く過ぎ去って欲しい、早く普通の生活をしたい、と願う人もいれば、今回の新型コロナの影響で、深刻に危機に陥り、精神的にも落ち込み、実際に罹患された方も周囲にいらっしゃって、悲しい思いや、経済的にも困窮に追い込まれた人々もいて、世代や、家庭の境遇によって、かなり考え方が千差万別でないかと思っています。これは私自身の見解ですが、コロナ感染の受け止め方は楽観的な人から悲観的な人たちがいて、立場によって反応がそれぞれ違っているのではまいか。
ただ現実は、自粛生活が続き、またキリスト者が拠り所とする教会の礼拝活動も閉鎖され、カトリック信者であれば一番大切にしているミサにも与れない。これはキリスト教会にとっても大きな支障と言わざるを得ません。教会の中には、個人的に罹患された方への配慮、或いは、どのように信仰的にこの混乱を受け止めて良いのか、何と発言をしていいのか、そして将来への宣教活動の開始など課題が山積していることでしょう。
過去の1918年のスペイン風邪の時は世界の人口の3分のⅠにあたる5億人が感染し、4000万人が死亡しました。現在は世界人口は約70億ですから2億人以上が死亡することになり、いかにスペイン風邪がすごかったかがわかります。それは全体の罹患者の12%の致死率で、10人の感染者の内1人が命を奪われた計算となります。そしてこの1918年という年はどういう年であったのかと申しますと、まずヨーロッパは近代化した武器を用いた第1次世界戦争中でした。そして前の年、1917年にはロシアで2回にわたる共産革命が起こり、カトリック教会やキリスト教会は低迷し、大きな恐怖と脅威をもたらした年でもありました。そこでこのような時代の背景を踏まえた、ある一つの出来事を取り上げてみたいと思います。
それはスペイン風邪の流行の前の年、1917年に、ポルトガルのファティマという田舎町の貧しい家の3人の子供たちに聖母マリアが出現したという話です。そして3つの預言を託したという、まことに真実か、耳を疑うかのような出来事が起こったのです。この出来事はあまり知られていない話ですが、私も2013年にこのポルトガルのファティマを訪れるまで、この出来事を知りませんでした。簡単にその出来事をお話しますと、3人の子供たちが神に祈りを唱え、羊の世話をしながら野原で遊んでいたところ、突然、輝いた聖母マリアが柊の木の上に現れ、子供たちが恐る恐るその聖母マリアを見上げ、「わたしたちは天国に行けるのでしょうか」と尋ねると、「一生懸命祈りなさい。天国に行けます」「そして毎月、この同じ場所に来て、この聖母マリアに会うように」と指示されたそうです。子供たちがその不思議な出来事を両親に告げると、誰も子供たちを相手にしませんでした。そこで家族の者も一緒に翌月、その同じ場所に行きますと、再び聖母マリアが現れ「汚れのない心を持つように」に。そして3人の子供の内、2人はすぐ天国に召されることが告げられたのでした。また、その3か月目にも、聖母マリアが同じ場所に再び現れ、子供たちにサタンが暴れまわっている地獄の様子を見させ、もうすぐ戦争は終了するが、また再び2度目の戦争が起こる、そして夜空に不思議な光をみたら、戦争と飢饉、そして教会や教皇への迫害が起こるので、「汚れのない心を持つ」ように、月の始めの土曜日に必ずこの場所でミサを行いなさい、ロシアが誤った道に進まないように祈りを捧げなさい」、と告げられた。この神秘に包まれた聖母マリアの御告げのうわさが、両親も共々村中に広まると、6か月目には、村中の人々や近隣の人々が約7万人の人々がその場所に集まり、雨が降る中で、天を見上げると異常気象が起こったのです。太陽が狂ったように急降下したり、太陽がくるくる回ったりその不思議な超現象を7万人の人が目撃して、たちまちこのニュースが全世界に配信され、それは当時の日本の新聞記事にも伝えられたということです。
ここまで来るとさすがにプロテスタントの私も、どこまで本当の話なのか、カトリックの大司教様に、疑問を呈しますと、怒られてしまいそうでした。当時10歳であったルシアだけがその後、聖母マリア出現の直接の目撃者として生存し、後に修道女となり、一生涯、そのことを記録として残し続けたのですが、この不思議な異常現象は大人を含めて7万人も目撃したということで、カトリック教会では否定しようがない出来事として、正式にこの不思議な出来事を神の啓示の出来事として承認し、このファティマは、今ではカトリック3大巡礼地の一つとなりました。この少女ルシアの証言により、聖母マリアが告げたように、年下の二人の子供は、その翌年から始まったスペイン風邪の世界的流行によって1919年と1920年に次々幼くして天に召されました。スペイン風邪の原因は詳しくは分かっておりませんが、インフルエンザの一種でした。当時のポルトガルは長い間の王制による政治が崩壊し、カトリックの教権主義に反対運動が起こされ、またその後の1929年にアメリカの世界恐慌も起こり、これが更に2度目の第2次世界大戦へと歴史が刻まれて行くことになったのです。カトリック教会ではこのファティマの出来事を覚えて1930年に正式なカトリックの巡礼地として定め、ロシアの救いのために祈りの奉献がなされるようになりました。その後、聖母マリアの預言通り、2度目の第2次世界大戦が起こり、歴史は共産主義との東西冷戦時代に突入しました。けれども1991年に連邦が崩壊した時には、多くの人々は聖母マリアの御告げにより、祈りを捧げ続けて人々の間には、ロシアが本当に救われたと信じた人々が起きるほど、益々、聖母マリアの御告げは信憑性を帯びて行くことになります。
ルシアには、その他に隠された聖母マリアからの御告げあったのですが、その御告げの内容が1957年に明らかにされた時、当時の教皇はこれを完全に封印し、一切の公開を阻みました。そして聖母マリアの預言の内容は隠蔽され続けました。なぜならその御告げの内容は、教皇が暗殺されるという内容だったからです。ところが1981年にヨハネ・パウロ二世が実際に銃弾で撃たれ、九死に一命を取り戻したことをきっかけに、この第三の預言が公にされ、1984年にこのヨハネ・パウロ二世自身の手によって聖母マリアによる御告げ「汚れなき心」を実践するため、このファティマでそのための奉献の祈りが行われたのです。今はその礼拝堂には教皇に打ち込まれ奉納された銃弾を見ることができます。私がそのファティマを訪れた時、その聖母マリアが出現した場所には、10万人ほど集まることができる大きな広場が完備し、記念の礼拝堂も建てられ、多くのカトリックの巡礼者が毎年訪れる有名な場所となりました。
このファティアの出来事は、多くの神秘性に包まれているのですけれど、聖書にはマリアもヨセフも、野にいる羊飼いも、天使の御告げを受けたり、使徒パウロも突然、光輝く光に出会い、イエス・キリストの声を聞いたりしました。その他の数々の聖書の奇跡が書かれている訳ですから、それらを否定したら、聖書を信じることができなるほど、聖書の記述は奇跡をありのまま受け入れております。そう考えれば、このファティマの出来事は私たちに何を語りかけ、その出来事をどのように理解すればよいかということです。そして、暗黒と低迷した時代に、「汚れのない心を持つように」という聖母マリアのお告げをどう理解すべきなのでしょうか。
この1917年の出来事をカトリック教会ではその後、どのように理解したのか、公式な見解「ファティマ第3の秘密」が2000年に発表されていますので、ここでご紹介したいと思います。まず、少女ルシアを含め、子供3人にあらわれた聖母マリアは個人的な啓示であったと解釈しています。反対に公的な預言は聖書で示される預言で、将来を言い当てるものでなく、神の救いの意思と、救いの道を示すものであること。3人の子供の個人的な啓示は、その公的な啓示を補完するもので、「霊の賜物」と「時のしるし」によって、深いレベルでキリストの現存を認知することであったとし、子供が見たものは視覚的よりも、五感を超えた深いレベルで触れたメッセージを表現した、意識の凝縮されたものであり、見た幻を解読して言葉で表現したのであり、その正当性は、魂の救い、悔い改め、清い心、信心という言葉で、神の意思を表したもので、避けられない事態を預言したものでなく、変革と将来への正しい方向性を叫んだものであるということです。それ故にこの出来事の預言を終末的様相として好奇心の対象にするのではなく、悔い改めと回心を導き招くための啓示である、とこのような正式な声明を出しました。
このスペイン風邪の直前に起こった3人の子供の聖母マリア出現とその預言は、非常に信仰的に低迷し、政治的にも暗黒的な時代にキリストが示した個人的な啓示、人々の意識下の不安の中で神から送られた警鐘というべきものであったと理解することが正しいようです。特にポルトガルは、かつての栄光に満ちた海運国から滑り落ちるように国力を失って行きますが、このスペイン風邪のころは、カトリック教会も神父が街を歩くのもはばかるほど反カトリック勢力が台頭し、聖職者の衣装を着ることが許されないほど信仰的には低調な時代だったそうです。そして数年後に、ポルトガルには独裁政治が生まれ、1975年まで国家が民主化されることはありませんでした。
聖書個所①
ここで聖書の話に戻りたいと思います。イエス・キリストはルカ21章でこうこう述べております。それは終末の徴です。
21:7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
ここの箇所はイエス・キリストが疫病に言及した唯一の箇所です。世の終わりはすぐに来ないけれど、こういう現象が起こる。ここでは信仰の在り方が終末論構造で語られております。つまりまず、にせ預言者、戦争や暴動、更に内部対立、地震や飢饉、そして疫病などが起こり、恐ろしい現象があるけれどそれは終わりではない。
新約聖書の終末論で、間違ってはいけないことは、最後にこの世が滅びて終わるのではなく、このような出来事の後、信仰者は迫害を受け、救いを証し、最後に人の子の来臨によって、神の国が成就するのだという力強いメッセージを告げるもので、悪い出来事がそのままイコール神の裁きではなく、一つの警鐘として人々に悔い改めることを、回心する方向へと導くためのものだとこの聖書の箇所からも理解できるでしょう。他の箇所では、イエス・キリストは生みの苦しみだと述べています。
この終末論的な枠組みが無い人にとっては、そのような不吉なことを言うな、全ては偶然で、ただの自然災害としてしか理解することしかできないでしょう。しかし、このコロナ後は、経済変動や、自国優先主義や、剣、飢饉など私たちの知らない困難な出来事が待っているかもしれません。
聖書箇所②
他の箇所マタイ16章ではイエス・キリストは時の徴を見分けなさいと言っています。
16:1 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。 よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
聖書は創世記からヨハネ黙示録に至るまで救済史、つまり一定期間の歴史なり、個人の人生なり、始めと終わりに至るまでの信仰に基づく終末論的構造を持って書かれています。(エスカトーン)神の国に入ることはどの時代にも、どの人の人生にも当てはまる神からの 語りかけ(ケリュグマ)、としてのそのメッセージが全ての人々に告げられていて、どの時代にも、どの人にも当てはまる救済史的メッセージ、つまり悪しき時代から救われて神の国へ入るというメッセージで書かれているのです。
今のこの時は、多くの人と異なった立場と異なった世代の人々と時間を共有していますので、各人によって新型コロナに対する感じ方は当然、異なって来るでしょう。しかし、大なり小なり、新型コロナの出来事は、一つの時代のしるしとして、神からの警鐘として受け止めることは大事なことではないでしょうか。新型コロナ後の宣教には多くの困難と試練が待っているかもしれません。しかしこれは終わりではない、この試練を通して、力強く福音と宣教をなすことによって、最後に神の国が最後に来るという希望の入り口にあることを確信することが大事だと思います。
何故、私たちは悪しき時代に抗して、常に神に祈り、福音を宣教するのでしょうか。最近、私が読んだ本フォーサイスの「祈りについて」、少しご紹介したいと思います。
全てが神のご計画の内にあるのなら、それが神の摂理であるならば、私たちはそれにただ従えば良いのではないか、予定説に近い解釈で、言えばそうなるでしょう。
それに対して、フォーサイスは、そうでない、現実の目の前にある障害物に対して、人は神の祈り、その障害物を取り除くために神がなさる現実に、あらがう祈りというものがあって、その祈りが神の予定の意志を変えることもできるのだ、と主張しているのです。神様の意思を変えるなんてとんでもないと思うかもしれません。
もしその神様が、時計仕掛けの神のようだったら、原理的なものならば、すべてが、「どうぞ神のみ旨のままに」ということになります。しかし、そこに神が生きておられる方であり、信仰に命があるならば、「どうぞ神よ、このような困難からお助けください。人々をどうぞ救ってください」という祈りをすることが私たちに許されているのだ、」いやむしろそうでなければならないと、フォーサイスは主張するのです。現代人が忘れかかっているもの。統計や予測によってこれはこうなる、それゆえクリスチャンはこうこうしなければならない。信仰が論理と信仰の法則となり、神との語らいがない。神様は、原理や法則ではない、生きて意思を持たれている神様なのに神様との対話や会話がない。神様は意思を持ったかたで、まさに祈りとは神様との語らい、頼み、お願い、そして神様が私たちに求めているのは何かを聞くお方であることを忘れてはいないであろうか。
そして神は私たちの真実な祈りによって、驚くべきことにご自分の意思を変えられると言うのです。つまり、裁きと赦しにもある程度の幅があると言うのです。イエス・キリストは福音を受け入れないコラジンやベトサイダの街を呪われました。でも弟子たちが、あるところでイエスを歓迎しない町を火で滅ぼしましょうかと提言すると、それを叱られました。イエス・キリストは最後まで悔い改めを待っているからです。
先のダビテ王の記事も、神の怒りをかい、ダビテ王が3日間の疫病を選択した話をしましたが、途中で神はその怒りさえ後悔し、その災いを止めました。またノアの洪水も神は後悔されました。また罪人の祈りを聞かれる神は、決して人が罪を犯して滅びることを願っていないからこそ、独り子イエス・キリストを贖いのそなえものとして差し出され、私たちの応答を待っておられるのです。それは神が私たちの返事を待つ時間であり、深い愛の核心となります。それゆえに、ましてキリスト者の祈る祈りは、神が最も耳を傾けて聞いてくださる祈りだと、ここで確信することができるでしょう。この点は、先ほどのカトリックのファティマの見解の声明の中で、こう述べております。聖母マリアからの教皇暗殺の御告げは失敗したのではなく、その悪い事態を回避することこそ、神の御旨であり、全ての悪い預言が運命的なものではないことをそこで明確に言及しております。つまり運命的なものは神には存在しないのです。いつでも開かない扉も開くことができるし、閉じることもできるのです。ここにキリスト者が、自ら福音宣教のために神に進んで祈り、神の救いをもたらすために神様に依り頼み伝道を積極的になさなければならない私たちの使命があるのです。コロナ後の宣教は、更に身のしまった混ぜ物のない、本物の福音のみ言葉を直接、宣べ伝える凛々しい態度で臨むことが求められるのではないでしょうか。時代が作り出した余計なメッキが剥がれ、本物を求めてベストを尽し、神様と対峙、対話するのです。「これはどうしたら良いでしょうか」と尋ねながら。
今回のお話は、ファティマの出来事を事例として紹介しながら、お話をしましたが、様々な思想、知恵と知識の発達により、共産主義国家が出現し、王制が腐敗し、カトリック教会も力を失う中で、3人の子供たちに現れた聖母マリアは、彼らに天国に入ることを約束し、「汚れのない心」を持つように御告げを授けましたが、ここに最も大事なメッセージがあります。「汚れ無き心」。いかに人の心は自らを繕って生きているか。これは嘘や、偽物で埋まっている現代にも通じることでしょう。どのように知識、学問がなされても、テクニックや技術が向上しても、人の心が罪の病を負い、偽りの知恵と、様々な利得を求めて、神の真理が全く見えなくなってしまっている現代の危険性こそ、波乱万丈な時代の中にあって、注意が必要なのです。日本では、コロナ感染がなくてもキリスト教人口が減少している時代に、神様はすべての運命を変えられるのにクリスチャンは傍観している。周りの人の言動に動かされてしまう。今こそ、信仰の生活に純真な「汚れのない心を」持つことが大事なことで、100年前の出来事と重ね合わせながら、今の時代と非常に似ているように思えるのです。