2022.1.30 ルカ11章5-13節
おはようございます。今日の礼拝のメッセージはルカ福音書から「求めよ、そうすれば与えられる」と題して、聖書のみ言葉を学びたいと思います。
皆さまは、いつ、このコロナ感染が収束するのだろうかと願いながら毎日、生活をしていると思います。また、コロナ後はどのような生活が待っているだろうかと心配している人いると思います。でも心配ばかりしていたら何も始まりません。それゆえに、今は何をなすべきか、コロナ後には何をなすべきか、希望を持って歩みだすことが大切でしょう。社会は便利になり、知りたいこと、欲しいものはみなコロナ禍であってもインタ―ネットで調べれば、すぐ情報や、欲しいものが手に入ります。しかし、それと同時に、このコロナ禍では、人との接触や、対面が少なくなり、私たちが直接、本当に伝えたいもの、或いは本当に手にしたいものが失われつつあるようにも思えます。
今日のライブ礼拝が少しでもお役に立てば幸いです。
聖書には、
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」という言う言葉が記されておりますが、これは悩み多い私たちにとって素晴らしい言葉でしょう。他の宗教でも、私たちの悩みや願いを叶えるために、いろいろなご利益が得られるために、お参りや祈願を人々に勧めています。
それではキリスト教の神様は、本当のところどうなのでしょう。一生懸命、神様に祈れば、誰でも何でも私たちの願いを叶えてくださるのでしょうか。新約聖書の山上の垂訓と呼ばれる、マタイ6章でイエス・キリストはこう言われています。「だから、言っておく、自分の命のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服より大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。・・・・(ずっと続きまして)、あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことはご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。判りやすく言えば、生活のことであまり思い悩むな。まず、神の国を求めれば、必要なものはみな、与えられる。まず神の国と神の義を求めなさい。これがイエス・キリストの教えです。毎日、神の国を求めれば、日常で必要なものはあとから付いて来る。つまり神の国を求めることが毎日、毎日、続けば、将来のことも日常生活のみならず、あなたが求めようとしていたモノも後からついてくるのですよ。こう教えているわけです。これは丁度、鉄道の線路に似ていますね。遠くを見れば線路は一点になり、電車が走れないかのように見える。そこで悩む。しかし、走って行くならば、走っても、走っても、線路は開いていて走れるのです。不安や、思い煩いは無用だったことが判ります。これが神様を信頼して歩むクリスチャン生活です。
この神の国を求めて、そのまま実践した人で有名な人は、イタリアのアッシジの聖フランチェスコという方でしょう。5年前ぐらいでしょうか。私はイタリアのアッシジを訪れて、実際に彼が住んでいた場所と彼が自分で建てた礼拝堂を見学したことがあります。彼は裕福な家庭で生まれましたが、信仰以外、全てのもの、家まで捨てて、修道僧になり、田舎の町の丘の上に、小さな小屋を建て、そこに一生涯籠り、神様の清さと純真な信仰だけを求め、一生涯を暮らしました。その質素な修道生活の精神は、イエス・キリストの教えをもっとも実践した人として、誰でも一度は訪れたい有名なカトリック教会の巡礼地へとなりました。彼は一修道僧であったにもかかわらず、800年経った今も、彼の精神を受けついだフランチェスコ修道会によって存続し、今日に至っています。彼はクリスマスに、質素な馬小屋を礼拝堂に造り、最初にお祝いしたひとでした。
当時、彼の生きた時代は13世紀でした。人々は王様に仕えるか、また教会に仕えるか、その中で自分の職業を選び生活をしていました。聖フランチェスコは、神様だけを信じて生きることの大切さを教えた人ですが、すべてのクリスチャンが彼のように修道僧にならなければ、イエス・キリストの教えを実践できないということではありません。彼は自らその修道僧の道を選んで、聖書の教えを忠実に実践した一人の信仰者であったということです。
現代では、特に宗教改革以後、クリスチャンは、いかなる職も神様から与えられた天職として、住む場所も、生き方も自由です。各々は自分の職業を持ち、むしろ働いて収入を得なければ社会は成り立ちませんし、労働することの意味は収入を得るばかりではなく、私たちの社会が相互によりよく発展し、多くの可能性と、多様で豊富な世界を生み出すことによって、全ての人々が充実した社会と、平和な世界を共有できるようになったということです。決して、社会の経済活動と信仰は矛盾するものではなく、この聖書のメッセージが語る今日的な意味は、神の国を求める信仰心を最も大切にし、その信仰心を自分の願望や欲望によって魂を売り渡すな。自分の社会的役割を果たしながら、まず神の国と神の義を求めて生きなさい。そうすればあなたがたに必要なものは、後からついて来ますというメッセージです。
そうしますと、私たちは「求めなさい。そうすれば、与えられる」。この本当の意味は、自分の欲しいものや、自分の願望や欲望を神に求めることではなく、まず神の国と神の義を求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい、そうすればその神の国は必ずあなたに与えられ、見つかり、開けてもらえると言う意味であり、これを正しく理解しませんとないと、大変な間違いを犯していることになります。
この聖書個所の後半部分を読みますと、子供が父親に食物を求めたとき、子供が魚を求めるのに蛇を、卵を求めるのにサソリを与える父親がいるか。でしょうか。悪い子どもであってもそのようなことはしない。まして天の父は、神の国を求める人に、日々の食物以上のもの、神の霊、聖霊を賜わらないはずがあるだろうか。と締めくくりの結論がそこに書かれている。この神の御力である聖霊こそあなたが本当に求めなくてはならないモノ。神の国へ通じる門。だからそれを求め、探し、叩け。これがルカ福音の「求めなさい。そうすれば与えられるであろう」という正しい理解となります。
神様は、その御子イエス・キリストを賜るほど、私たちを愛してくださっている方なので、神の国を求め、神の霊を求める者に、最高のモノを与えてくださる。それは永遠に朽ちることのない命です。或いは使徒パウロによると、御子イエス・キリストを私たちに賜った神は、その他の万物をも賜らないはずがあろうかと言わしめるほど、神の国を求める人に、祝福をもって応じようとしてくださる。日々の魚や卵も必要でしょう。でもそれら以上のもの、まず聖霊を求めなさい、探せ、門を叩けと聖書は私たちに強く語っております。
問題はその神の国を求めると言っても一体どこに神の国があるのか。どこに聖霊が存在するのか。空に向かって祈って、一体どうなるのか。実はそれが不信仰の始まりなのです。神様も、神の国も、聖霊も目には見えません。だから祈りが必要なのです。祈り求め、探し、門を叩くのです。神様、どこにおられるのですか。私は何をすべきでしょうか。主の御前に立ち、主よ、どうぞお語りください。僕は聞きますかから。聖霊は目に見えませんが、神のみ言葉に耳を傾け、聞き従うなら、これが不思議です。その祈りは、口から出るその言葉によって、いつか目に見える形となって成就されて行くのです。この素晴らしい実践は体験するかどうかによって私たちの信仰生活をまったく異なるものとなるでしょう。
神様の期待しているご計画は、私たちの祈りの言葉を通して、神様のご栄光を顕すことであり、被造物として私たちが造られ、神様から祝福を受け、その恵みと栄光を感謝し、賛美することが、神様の創造の目的です。
私はかつて牧会していた教会に熱心なご夫婦の信者さんがおりました。とても信仰の熱心な方で、教会だけでなく、家庭でも、家族全員が毎晩、祈祷会、つまり家庭礼拝をする信者さんでした。元気な男の子供さんが二人いて、普通のサラリーマン生活の家庭でしたが、あまりにも熱心なので、周りの人々は、そんなに熱心に祈る必要はないのですよ。そんなに祈ってどうするのですか。でも段々と仕事より信仰生活に時間を割くようになると、その数年後には、その家庭集会が、伝道集会となり、ついにどこからも支援を受けずに、土地が与えられ、立派な会堂も建ち、本人たちはサラリーマンを辞めて、その単立の教会の牧師になって現在も伝道活動を続けておられます。毎年、お便りを頂くのですが、小学生だった当時の男の子供さんは二人とも東京の国立大学にストレートで合格したそうです。通っていた公立高校では、今までその大学に合格した人はひとりもいない、塾も通わないで合格するはずがないと言われながら、この前代未聞の出来事に、ご両親はどのような教育をされたのですか、教育者関係者から次々と講演依頼が殺到したそうです。いや、毎日、家庭で祈祷会をしただけです。そして今では長男さんはそこの医学部を出て医師として働いております。まず神の国を求めるならば、必要なもの以上、願わないものまでついてくる。これが私たちの信じる神様の祝福の力、恵みの力、そして目に見える応えなのです。
神様はと言う方は、旧約聖書に「わたしは遠くにいる神ではなく、あなたの身近にいます神である」と書いてありますが、どこの場所でも、いつでも側にいて、私たちの祈りを始めからおわりまで聞いていてくださる神様です。
先ほどのフランチェスコスコ修道僧もそうですが、私たちは、そのような素晴らしい祝福の証を聞いたときに、その人が修道僧であっても、伝道者であっても、ビジネスマンであっても、何であれ、人はそれぞれの祝福が与えられ、羨む必要は一切ありません。その人、その人なりに天の神様は、神の国を求める者に恵みと祝福を与えようとしている。それはこの御言葉に従う全ての人々にです。
私は留学時代、学問も大事ですが、アメリカのバプテスト教会で実際に体験したことは、大きな恵みでした。神様はどのようにご自身の栄光を顕されるのか。それがビジネスであれ、研究者であれ、どのような仕事であれ、神のみ言葉を忠実に守り、まず神の国を求めた人たちがいかに祝福されたかをたくさん見て来ました。そして祝福された人々は、本当に神様への感謝の気持ちから、教会でも、ミッションスクールでも、社会でも、多大な貢献をして感謝している。何故、神の国を求めることが一番大切かと申しますと、これが信仰生活の的となるからです。町から的から外れた行動や行いは、罪の力が妨害するからです。
私が最初にアメリカで出席したバプテスト教会は、立派な博物館を思わせる石造りの玄関を持った教会で、礼拝堂はまるで、伝統あるコンサートホールのように、座席が整然と並び、1000人ぐらい収容できるその礼拝堂に驚きました。付属の図書館や体育館もある。でも昔は本当に小さな教会で、その教会から今まで100名の宣教師を海外に送り出して来ましたと聞いて、本当に目頭が熱くなりました。多分、信徒さんの中には、子供さんを海外に宣教師として送り出した家族がたくさんいることでしょう。神様のみ言葉を熱心に求め、信じて歩んで来た人たちはわずかなお金も惜しんで、多くの宣教師を海外に伝道者として送り、支え、喜びとする人たちなのです。このような祝福を受けたクリスチャンがいなければ、私たちの常盤台教会も宣教師の力によって日本の地に誕生しなかったでしょう。
残念なことに、問題は、そのような神様がいかに素晴らしい働きをする方で、いかに私たちを愛しておられるのかということを知らない人にとって、アメリカの教会は豊かで、繁栄を求めた宗教だと批判する人が時いますけれど、その人たちは、神様はこうこう、信仰はこうこうでなければならないと神様のご計画をコントロールし、神様を学問の研究対象にしますが、自分には与えられない恵みを、羨んでいるだけなのです。
実は、このルカ福音書の平行記事に、マタイ福音にも同じ「求めなさい。そうすれば与えられる」という聖書の箇所があり、内容は殆ど同じですが、最後の締めくくり部分が違う。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言である」となっている。つまり、あなたが求めれば、神様が与えるように、友達があなたに求めれば、あなたもその人にそうしなさい。これが律法と預言、つまり、神のみ旨だ」という解釈でして、ルカ福音書とは結末が違います。マタイの結論はゴールデンルール、「神の国を求めよ、与えられる」だけではなく、「神の国を、同じように求める者に与えよ」になり、神の国を求めることは、また神の国を人々に与えることであることを含でおります。
それゆえに、この素晴らしい神様の祝福は受けるばかりではなく、私たちの隣人に与えて行く。それは神の国を人々に宣べ伝えて、同じ恵みに与れるよう宣べ伝えなさいとも言っているのです。
皆様の中で、本当の神様の救いと祝福を求めている方はおられませんか。神様は、あなたの必要なものは皆、ご存じです。だから神の国を求めませんか。その祝福に与って、その恵みを、まだこの恵みを知らない人に分け与えることのできる新しい人生が出発するのです。まず神の国と神の義を。的外れのない人生を送るようにしましょう。