2024.8.26説教 「良き福音の訪れ」 コリント1の1章18-25節
皆様おはようございます。今日は「良きおとずれ」と題して聖書からコリント人への手紙から学びましょう。
まず、聖書が語る「良きおとずれ」は「福音」と呼びます。英語で言いますとグッドニュースです。何が良いニュースかと申しますと、皆さんが今まで知らなかった良い知らせがありますという意味です。それは人生で一番、難問であった問題点が解決して、新しい人生が始まるということです。私たちの内なる人が新しく生まれ変わるということです。そして今日お伝えする内容は、聖書が伝えているキリストの十字架の救いについての福音です。
このコリント人への手紙を書いた使徒パウロという人物は、イエス・キリストや、ユダヤ教についてあまり知識のない地中海に住む外国の人々にこの福音を伝えた伝道者でした。彼がギリシャのアテネで、このキリストの十字架の死と復活を話すますと、人々はあざ笑って、キリストが死から復活した話など信じられないと言いました。ユダヤ教のユダヤ人たちでさえ、復活の証拠、しるしを求めたと書かれています。
しかし、パウロはこう叫びます。
「十字架の言葉は滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。」なぜ滅びゆくものに十字架の言葉は愚かなのでしょうか。お分かりになりますよね。救い主の最後が無力で、無残な殉教死で終わったからです。世を救う救世主としては何とみじめな最後でしょう。ですからその上その死んだキリストが復活したなど、正気の沙汰ではありません。でもこの使徒パウロという人はこの十字架の死と復活の救いは神が定めた救いのご計画であり、「知恵ある者を滅ぼし、悟りある者の悟りを退ける」ために定めたものであると言ったのです。「この十字架の救いを論じる論客はどこにいるのか、神は全ての知恵ある者、学問のある者を愚かにされたではないか。」それによって彼らが救いに与ることがないように神がなされたと言うのです。
皆さんは、救い主であるキリストがどうして最後に死んでしまったのかと思われますか。果たして救いは未完了で挫折してしまったのでしょうか。そうではありません。キリストは自分自身の命を救うために十字架にかかったのではありません。逆に私たちを救うために死んでくださったのです。このような私たちを愛してやまない主イエス・キリストは私たちが罪と死の力によって滅びないで救われるために、死んでくださったのです。一体、このような救い主は歴史上どこにいたでしょうか。神の子の尊い身分を持つお方が、己を低くして、私たちのために死んでくださいました。神の子自らが死の苦しみを通して私たちの罪を贖ってくださったのです。それではその罪と死の力とは一体何者なのでしょうか。それは悪の力はそこへと陥れる滅びの力であり、それを恐れるということです。サタンはこの力を利用して現在でも人々を支配しようとしています。けれども「全く愛は怖れを取り除く」と聖書に記されているように、神の愛によって、そのサタンの罪と死の力を打ち破り、その先に神さまが約束された、自由でサタンの力から解放された永遠の命があることを証されました。それがキリストの復活の栄光です。二度とサタンの奴隷とならないように。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いことを」信じる者となりましょう。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。言によらず成ったものは何ひとつなかった。言のうちに成ったものは命であった。この命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇は光に勝たなかった。」ヨハネ福音書の冒頭に書かれていますが、ギリシャ語で言とは、「ロゴス」。この言は神であった。つまり目に見えない神が言を持っていて、始めにこの世界の万物を造り、永遠の命を持っておられた。そしてそれは人の光であった。この言とは、見える姿でこの世に来られた方がイエス・キリストであり、このキリストこそ私たちに、光と命を与え、そして闇の力に対して勝利を宣言するために、十字架の死によって罪と死の力をチリ芥のように粉砕し、だれでもこのキリストの十字架の死を受け入れ、滅びることがないように、罪が赦され永遠の命に与ることができるようにと救を計画された。これが神の知恵、救い主キリストの死と復活の出来事なのです。それは人の常識やや知恵や知識では理解できないことでした。普通、この世の支配者は、敵対するものを部下に戦いを命じ、勝利して、自分が生きのびてこの世の支配者となります。なぜなら自分が死んだら敗北者です。
しかし、神さまは王になるべき神の御子が、人々を救うために自ら命を捨て、私たちを救ってくださった。「神はその独り子をこの世に賜うほどに私たちを愛してくださった。御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠の命に与るためである」
つまり私たちは、私たちが罪の力に囚われて滅びるべき運命を見て、イエス・キリストは自らの命を捨てて贖いの十字架にかかり、その救いを信じる者に永遠の命に生きることができるように、救いの道を整えられたのです。
ですから、この福音を信じる者は、キリストが復活したように、私たちもキリストにあって古い過去の自分に死に、キリストと共に新しく甦ることによって、もはやこの世の力から解放された、神の恵みと祝福に満ちた人生が与えられたのです。
こうして私たちは、キリストが復活された日曜日の朝に、毎週、教会に集うのは、十字架に死に復活されたのキリストを礼拝するためであり、このキリストの救いと復活の命に与るという救いの秘儀に与るためです。そして私たちは毎週、主と共に復活し、新しい人に変えられて生活を始めるのです。
このような素晴らしい福音は、時には、この世のサタンの力によって理解できないように躓かせる働きをもって私たちが、理解できないように働いております。このキリストの十字架は、ユダヤ人にはつまずかせる者、異邦人には愚かな者、キリストの復活を否定する者には人の賢さによってこの救いの恵みは理解できないのです。しかし神は賢いものではなく、人の愚かさの中で発見されることを神は良しとされたのです。
イザヤ書にこう書かれています「わたしは主である。わたしのほかにかみはない。わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、また災いを創造する。わたしは主である。すべてこれらのことをなす者である。」
ダニエル書には「いと高き者が、人間の国を治めて、自分の意のままにこれを人に与え、また人のうちの最も卑しいものを、その上に立てられる」
詩篇ではこの大自然をみる時、もろもrの天は神の栄光をあらわし、おおぞらはみ手のわざを示す。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞こえないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。日は花婿がその祝いのへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない」
一体どれだけ人間が賢いのか、既にあったものを分析し、理解し、いかにこの地球が素晴らしい命に溢れた場所であることを発見するだけである。
神は人間だけには、神に似せて造られ、その神を知り、神と心を通わせることによって、私たちを愛し、神の素晴らしさと、私たちの存在が恵みと喜びに満ちるようにご計画されたのです。「人間は考える葦である」とパスカルは言いましたが、この小さい体を持つ私たちの体は、本当に繊細な生き物ですが、神を信じ、神を賛美し、神のみ旨を行うことのできる素晴らしい被造物なのです。
蝉は7年間の生涯のほとんどが地中の中でさなぎですが、最後の1週間だけ羽が与えられ、夏の日に成虫の姿を現し去って行きます。
人間の一生も本当に短い。わずか70年、80年、或いは100年でしょう。でも神さまは、私たちが、そのまま滅びないで、永遠の命に至る道を供えられた。皆さんは、もう一度人生を送れたら、過去に失敗したことや間違ったことを思いだして、二度目はもっと素晴らしい人生が送れたのにと思うでしょう。しかし、私たちはこの世で死んで終わりではないのです。不思議な神の命があって、キリストが復活したように、新しい復活の体となり、次の命が待っています。それはこの4次元を超えた不思議な通り道があって、今も私たちはこの信仰の不思議な通り道を通って神に祈り、聖霊によって神のみ旨を知り、神と対話をしながら、既にその命によって生かされているのです。
私たちの信仰は、神学でもなければ知識や、法則、原理でもありません。また教会の教義や教理でもありません。神さまは私たちが真心で、祈るものと対話し、私たちがみ言葉を聞き、従うことの中で、神の救いと恵みを知ることのできないようにされたのです。
私たちの人生は、神と出会い、神の御声を聞く人生です。対話する人生です。そして一人一人は神さまの御用のために召し出されているのです。それが、牧師であろうが、伝道者であろうが、賛美する者、社会で福祉事業に携わる者、人々に仕えるビジネスであろうが、或いは個人の生活の中での信徒伝道であろうが。このキリストの福音は、私たちを常に新しい人生、新しい生活を生み出す力を持っていて、生きたキリストが私たちと共に働かれることを望んでおられるのです。この素晴らしい福音のおとずれを耳にした日に、もはや過去の古いものは過ぎ去り、新しい人となって、天に凱旋する時まで、走り続けようではありませんか。
申命記では「今、あなたの神、主があなたに求められることは何であろうか。ただこれだけでる。すなわち、あなたの神、主を認め、全ての道に歩んで、神を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの主に仕え、今日、あなたの命じる主の教えと定めとを守って幸いを得ることである。見よ、天ともろもろの天、および地と地にあるものとはみなあなたの神、主のものではないか」
「主はその玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとは全ての物を治められるのです。」
もはやこの世の支配する力によるのでなく、その罪と死を贖い私たちのために死んで救いの道を供えられた主イエス・キリストを私の救い主と信じ、古い過去に死に、新しいキリストの復活の命にあずかり、神に喜ばれる新しい人生をスタートしようではありませんか。
すべて重荷を負って苦労している人は、私の下に来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和でへりくだった者であるから、私の軛を負うて私に学びなさい。そうすればあなた方の魂に休みが与えられるであろう。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである。