2022.7.31
マルコ10:46-52
招詞イザヤ54章4-10節
今日の聖書の箇所は、マタイ、マルコ、ルカの三福音書の記されている物語です。そして場所はエリコと言う町で起こった出来事を記しており、道端で物乞いをしていた一人の盲人が、この町にイエスが立ち寄ることを耳にして、そこを通りかかるイエスに向かい大声で「私を憐れんでください」と叫び求めたことが記されております。このマルコ福音書だけは、その盲人の名前がバルティマイであると書かれており、マタイ福音書では、独りではなく二人の盲人がイエスによって癒されたと書かれています。つまり目が見えない盲人が二人とも見えるようになったとあります。また癒された盲人の名前はマルコ福音書だけがバルティマイであったと記されていることから、この盲人は町中の人々が知っていた盲人だったと思われます。バルティマイのバルは子を意味し、父親ティマイの子という意味ですので、町では誰でも少し知られいぇいた家族だったと言えます。このように目が見えないと言うことは本当に不自由なことです。目が見えませんと、近くのものを手で触って、杖を使って状況を把握しながら行動しなければなりません。また人の手を借りなければ生きられない人生なのです。イエスは、このような身体的に障害を持っている人々を心から憐み、多くの奇跡を行って癒されました。
そしてこの物語は、目の見えない一人の盲人をイエスが癒すという奇跡物語なのですが、今日は別な角度から、聖書が宣べ伝えようとしている真意を、今日はお話をしたいと思います。実は、私たちも心の世界では目が見えない盲人と同じだということです。毎日、このバルティマイと同様に、不自由な世界を生きていると言うことです。イエスは、たとえ目が見えても、真理の世界が見えない人々に対して、「私たちは目が見えていると言う人々に対して、そう言い張るあなたがたがこそ、実際は見えず、目が見えない人が見えるようになるために私はこの世に来たのである」と語られた。有名な山上の垂訓の教えの中でも、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気が付かないのか。兄弟に向かって、「あなたの目からおが屑を取らせてください」と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、おが屑を取り除くことができる」とイエスは語られた。目が見ええると言い張る人は、自分の目に丸太があるのに、他人の目のおが屑を取ろうとしているのです。
新約聖書には、ユダヤ教の信棒者、キリスト教徒の迫害者、使徒パウロのことが書かれています。彼は最初、自分が信じているユダヤ教が一番正しい。その結果、次々とキリスト教徒を捕まえては投獄していた。ある時にはステパノいう信者を石で撃ち殺すことに加担したこともあるそのパウロが、ある日、突然、大きな天からの光を受け、全く目が見えなくなりました。その時、彼は天から彼の名前を呼ぶ声を聴いたのです。パウロは言います。あなたは一体だれですか。「わたしは、あなたが迫害しているイエス・キリストである。とげある鞭をければあなたが傷つくだけだ」と彼に語りかけた。ことわざにもありますように、「天に、向かって唾をはくと、その唾は自分の顔にかかって来る」。キリスト教徒は何も悪いことはしていない。それなのにパウロは自分が正しいと思っていた正義感によって、罪のないキリスト教徒を迫害し、或いは殺すと言う行為。この正義感が、全く本末転倒で間違っていたことに彼が気づかされた瞬間、今まで見えていた目が見えなくなってしまう。そこでダマスコという町のアナニアというキリスト信者の家に連れられ、頭の上に手を置いて神様に祈ってもらうと、パウロの目からうろこのようなものが落ち、再び目が見えるようになったという出来事です。「目からうろこが落ちる」という日本語のことわざは、この聖書の箇所から生まれました。今まで目に霞がかかっていたような目が、はっきりと見えるようになる。つまり本当の真実の世界が見えてくる。この時に使徒パウロは、何が正しいのかはっきりわかったのです。自分の目には大きな丸太があった。自分の正義感で人を迫害することが、果たして本当の正義なのか。これが彼の心の目が開かれた瞬間です。自分の目の中に大きな丸太があることを知って、彼がクリスチャンに回心した瞬間です。
今、世界が自分の正義感のゆえに戦争をしています。しかしたくさんの異なる正義がありすぎて、解決がつかない。いろいろな意見があることは良いこどだけれども、暴力や武力が許されて良いのか。お互いが神による平和を求める心があってこそ、本当の真理の世界に和解と解決があるのです。
イエス・キリストは当時のユダヤ教の宗教者から批判と非難を受けました。そしてその宗教者たちは、自分たちは見えると主張する人たちでした。イエスは、本当の真理は、自分は見えると言う人には何も見えていない。私がこの世に来たのは、この見えない人が見えるようになるためである、と語られたのはこのためなのです。そこでイエスは何をなさったのか。彼らの過ちを自ら知るように、彼らと戦うのではなく、イエス自身の命を捨て去ることによって、その過ちに気づかせる。つまり十字架にかかり彼らの罪の贖いと罪の赦しを父なる神にお願いして、犠牲の死を遂げられました。それが罪びとを憎まず、人々を愛するキリストの愛だったのです。その場所には、ユダヤ教とは全く関係のないローマの兵士の隊長が初めから最後まで、その様子を見ていました。そしてイエス・キリストが最後に息を引き取られたのを見て、思わず口にしました。この人は、真に神の子であった。
最近では黒人差別からの解放のため、無抵抗主義を貫き、殉教死したアメリカのキング牧師がいます。彼は前々から暗殺の予告を受けていたのです。彼は自分は最後に殺されると知っていながら、モーセがイスラエルの民を40年間導き、あと一歩と言うピスガの山の頂で、その目的地のカナンの地を遠くに見ていると最後のメッセージを語った後、ピストルによって暗殺され亡くなりました。その結果、黒人差別撤廃の法律が成就することができたのです。
イエス様も最後まで従ったお弟子さんは100名から200名ぐらいでした。そして自らの命を捧げたあと、三日目に死より甦えるという、復活の姿を弟子たちに顕現され、人類の救いの道を完成させて下さったのです。誰でも自らの罪を認め悔い改める者は、イエス・キリストの十字架と復活によって救われるのです。
つまりまず私たちの内にある罪に気づき、その本当の真理の世界が見えるようになる。これが罪から救われる、「心の目が開かれる」という真意なのです。
この聖書のバルティマイは、毎日、大通りに行き、そこで行き交う人々に物乞いをして生活をすることが彼の人生の全てでした。彼にとってそれはまったく不自由な生活でした。でもイエス・キリストがこの町に来ていることを知った時に、一度も会ったことがないイエス・キリストの名前を大声で叫んだのです。「イエス様、イエス様」。あまりにも気が狂ったように叫ぶものですから、周りの人々は彼を叱りつけて黙らせようとしました。「そんなに大騒ぎするのではない」。おそらく、バルティマイはイエス様のメシアとしての噂を耳にしていたのでしょう。人々がダビテの子だと呼ぶぐらい、1000年に一度の大預言者が来ている。そして奇跡を行った話も聞いている。もしこの機会を逃したら、自分はこの不自由な生活から一生救われない。九死に一生の思いで、「ダビデの子よ、イエスよ。私を憐れんでくださーい」。その結果、このイエスを物見見物で人々が押し寄せている群衆の騒ぎの中で、このバルティマイの心からの叫び声がイエス・キリストの耳に届いたのです。イエスは、誰かが私を呼んでいる。 そこで立ち止まり、周りを見渡し、弟子に言いました。「その人を呼んで来なさい」。このイエス様がバルティマイを呼んでいるという言葉はすぐ知らされ、叱りつけていた周囲の人々も「バルティマイよ、安心せよ。イエス様がお前を呼んでいるぞ」。もうこの言葉を聞いた瞬間、バルティマイは、上着を脱ぎ捨てて、目が見えないのに躍り上がってイエスの所へ走り寄って行きました。皆さん、この騒々しい世の中でも、私たちの祈り、そして皆さんの祈りの叫びが、神様のところへ届かないはずがないのです。「イエス様。神様。私たちの祈りを聞いてくださーい。憐れんでください」。神様はいろいろな人の叫びを聞いているのですけれど、もし「イエス様の名前で叫んだら」、イエス様は誰かが私を呼んでいる、とイエス様は決してその叫び声を聞き逃すことはない。そして私たちに何をしてほしいのか」。と尋ねられる。バルティマイは、その時、何と言ったのでしょうか。「お金を恵んでください。食べ物をください」と訴えたのでしょうか。いや違います。
彼の人生は毎日、物乞いをすることが彼の日課でした。けれどもこのバルティマイにとってそのような人生を早く終りにして、新しい世界が欲しかったのです。そこでバルティマイは、「先生、わたしは目が見えるようになりたいのです。」とはっきり言いました。イエス様はその言葉を聞き、バルティマイは物乞いではなくして、心からの救いを求めていたことを知り、このバルティマイを深く憐れみ「行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われたのです。そうしましたら彼の目は直ちに見えるようになり、自分が物乞いしていた場所には二度よと戻らず、嬉しくて喜びながらイエスの後について行ったということです。
もし私たちが祈りの叫びをあげるなら、イエスは「あなたは何をして欲しいのか」と尋ねられる。今のような物乞生活では、お金を得てもすぐ無くなる。そして毎日、同じ生活が続く。。けれども真理の道に目が開かれたなら、今までと違う新しい人生が始まるのです。それゆえに、私たちが神様に祈る時、あれをして欲しい、これをして欲しいのではなく、私たちの本当の目が開かれ、真理の道が見えるようになること。そしてイエス様の名前を呼ぶならば、いつでも私たちの祈りを聞いてくださるのです。この見えない目を見えるようにしてください。それは心の目が開かれることなのです。もしこの真理の道が見えるようになれば、おのずとその道は新しく開かれるのです。何故なら、真理の道を歩ほど恐ろしい力はない。誰も否定できない真理の道ほど怖いものはないからです。いつまでも毎日、同じような物乞いの生活を願いますか。それとも本当の目が見えるようになり、新しい真理の道を歩みたいですか。
私が、イエス・キリストを信じる信仰を決断したのは、高校生時代、受験勉強をしながら、毎日、寝る前に30分新約聖書を少しずつ読んだことに始まります。聖書は倫理的にも素晴らしい教えです。また奇跡物語もたくさんあります。ある日の晩、聖書は、結局のところ私たちに何を語っているのだろうか、この私とどのような関係があるのだろうか。そしてその晩は心の中にあった目のうろこが落ちたように、聖書はユダヤ教の教えや戒めを学ぶため、或いはイエスの崇高な教えの実践を行えということではない、この罪を背負った迷える人間が、直接、イエス・キリストという方を通して、真理なる神に触れる、心が通じることのできる信仰の道をこの私に語りかけているのだ。なるほど、2000年前のこの書物は、今の私の生活と直接、神様と心で通じることのできる真理の道を語っているのだと言うことに気づいたのです。これが目が見えず罪ある私たちが、キリストの真理、真実によって目からうろこが落ちて救われるということなのだ。
つまり、判り易く言えば、電話で電話番号さえわかればあったことのない遠くの人でも話ができるのです。若い人は不思議に思いますが、どこの家庭にも電話が1台設置されるようになったのは、私の小中学生時代で、そのころは、手紙のほかに、急いで連絡するのに電報を使っていた時代です。ですから真理の道という電話線があれば神様と意思疎通ができるようになるという信仰の理解は、私にとって驚きの発見でした。あったことのない人ともいつでも話せる。だから私たちはイエス・キリストの名前で神様に祈るのだ。神様と意思疎通ができるなんて信じられない話が理解できた時、もう天に通じるような新しい次元の空間を発見した。そこに復活のイエス様が私と共にいてくださるという喜びの体験をしたのです。そして耳には聞こえないけれど、祈りと心で神様の言葉を聞くことができるなら、この聖書が教えるキリストが自分の人生を導く真の道、救いの道だと確信しました。それが私の心の目のうろこが落ちた瞬間でした。そうすれば、すべては、新しい道が開かれって行くのです。
礼拝の最初に読まれた旧約聖書のイザヤ書にはこのように記されています。
59章、「主の手が短くて救いえないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。ただあなたがたの過ちが神とあなたがたを隔て、あなた方の罪が御顔を隠し、聞こえないようにしているのだ。」つまり神様の手が短くて私たちを救えないのではない。あなたがたの罪が神様と私たちの間の隔たりを造っているのゆえに救えないのだ。またイザヤ書30章には「シオンの民、エルサレムに住む者よ。あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの叫び声に応えて、必ずあなたに恵を与えてくださる。主がそれを聞かれると、直ちにあなたに応えられる」とも書かれている。これは神様がこの世に遣わされた罪からの贖い主に、救い主。誰でも主イエス・キリストの御名を叫ぶものを救われると約束してくださっているのです。後は決断と勇気をもって信じて叫ぶのです。「私を救って下さーい。憐れんでください。」。そしてイザヤ初55章には「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいます内に。」と書かれています。口語訳聖書では「あなたが主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。悪しき者はその道を捨て、ただしからぬひとはその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」と記されている。
つまりイエス様がいまあなたのそばを通り過ぎようとしている。だからこの機会を逃さず、主の御名を求めて叫びなさい。主イエスの御名を呼びなさい。いつでも呼び求められると思ったら、その機会は失われてしまう。機会はそう多くはない。信仰をもって叫ぶのです。「私を憐れんでください」。あなたは私に何をして欲しいのか。そうです。「私に新しい人生を」。「命ある真理に導かれた生活を」。イエス様はその時、「あなたの信仰があなたを救った」と言われるでしょう。そうしたらバルティマイの目が見えるよう奇跡が起こります。イエス様の御言葉には力があるのです。天の神様から遣わされた方ですから、口だけでない。イエス様は、罪赦されたと言う言葉と、足が歩けない人が歩けるようになるのと、どちらが難しいのか、と人々に尋ねられました。それは口だけの言葉より、足が歩けるようになる奇跡の方が難しいでしょう。イエス様が、私たちの罪が赦されると言うことは、奇跡が起こると言うことなのです。それが死からさえも甦られた主イエス・キリストの本当の神の救いの力です。つまり命の再生、リバイバルなのです。エゼキエル書にあるように、神の命の息が吹きかけられると今まで死んだような人の骨が甦るのです。そして一人の人が救われると言うことは、99人の義人より勝るという意味は、その一人の人によって福音が拡散されるということなのです。皆さん。日本国内にはコロナウイルスはゼロだったのです。たった一人でもコロナウイルスの菌を持った人が日本に入国すると、その後に何万人の人々に伝染して行くことを体験しました。反対に、このように神の救いの力の徴が一人の人に起こるならば、日本の国にどれほど素晴らしい伝染力を持つことでしょう。主イエス・キリストは、今日もこの常盤台バプテスト教会を通して、多くの人々が主イエス・キリストの御救いに与り、その神の力を宣べ伝える教会となりますように私たちはお祈りして行きたいと思います。
イエス・キリストを信じるということは、イエス・キリストの内にある真理の道を信じるということです。いちばん新しい聖書協会共同訳によりますと、ローマ書3章には「しかし、今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が顕されました。神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現わされたのである」。この真実という言葉は真理という意味も含むのですが、哲学的な真理ではなく、信仰の世界の真理なので、真実という翻訳に書き替えられた箇所です。他にも2,3の翻訳の候補がありましたが、神の義とは、キリストの真実によって顕されたのであり、私たちの正義ではなく、そこには神の憐みと自己犠牲によるキリストの真実によって、バルティマイが新しい人生を始めたように、私たちも新しい命によって新しい人生に生まれ変わることができるのです。
今日、このメッセージを聴いて、私も主イエス・キリストを救い主と信じて新しい人生と新しい生活を始めたいと願っていらっしゃる方は、どうぞ私たちの教会にご連絡ください。一人でもキリストの真実によって、神の救いの恵みが皆さまの上に豊かに注がれますように心からお祈りします。
祈り
招き
賛美626 主はいのちを与えたまり
私は今、問題とされている旧統一教会が霊感商法で騒がれた1990年ごろから、統一協会について相談を幾つか受けたことがあります。会社を突然止めて、家にも帰らず、知らない土地に行って壺や印鑑を高額で訪問販売をする。そしてその利益をその団体に納める。親は連絡のないその息子さんや娘さんを通常の生活に戻すことを願って相談されてきた訳です。そこでその統一協会と言われる場所を探して、その場所に行ってみたのです。表向きはキリスト教の看板を掲げているのですが、いろいろなビデオを見せて、世界に平和や愛が失われているので世界統一をすることによってその完全な神の国が来るのですよ。これが主な趣旨ですが、問題はイエス・キリストは最後に十字架で死刑にされてしまった。それは神の道を述べながら、救いは未完成だった。残りの5%は統一協会が完成させなくてはならないのです。その使命を受けているのが再臨のキリストである文鮮明師だという中身です。そして統一協会員は、その救いを完成するために飲まず食わずで働き、そのお金を全部献金して、残りの5%を救いの完成のために奉仕をしましょう。こういう内容でした。だからそれを聞いた人は世界を救うためにという絶大な使命を受けて、霊感商法でお金を集める訳です。正統的なキリスト教からすると「救いの理解」が完全に異端であるわけです。ただ諸宗教は信教の自由で保証されているので、伝統的なキリスト教会からは、その教えは異端ですね。としか言えない訳です。そして集会の最後の祈りを聞いて驚いたことは、「イエス・キリストの御名によって祈ります」と締めくくる祈りを「文鮮明師の御名によって祈ります」と祈るのです。こうなるとキリスト教ではなくそれはまったく文鮮明教で、キリスト教と関係がないのです。祈りが文鮮明の御名によって祈っているので、文鮮明を神としているのです。その神様が現実にこの世にいて会うことも出来るわけですから、信者さんのテンションはより熱くなります。そしてその文鮮明師が亡くなると、奥様が母親の神様となり、平和家庭連合という名前に改称して活動しております。統一原理の本を読みましたが、韓国特有の陰と陽の結合を採り入れていて、聖書を再解釈しています。実の息子がこの団体を継承したのですが、母親がそれを拒否して分裂状態になっており、その息子が率いる宗教団体がまた変わっていて、ライフル銃がシンボルでライフル銃を持ち、頭の帽子にライフル銃の弾を飾り付けているという宗教団体であります。
この話をしたのは、私たちの祈りは、イエス・キリストに届く祈りであり、イエス・キリストからの御声を聞くのですが、統一教会では文鮮明師に届く祈りであり、信者は文鮮明師の声を聞くのです。誰の名前で祈るのかによってそれを受け取る相手は全く違うということです。祈りとは神様と通じる道ですが、イエス・キリストを信じない人の祈りも、どこの神様なのかまったく判らない祈りだということです。バルテイィマイはダビデの子イエスよ、と叫びましたが、イエスは神を父なる神と呼び、自分は父なる神から遣わされたことを証しましたので、自分を救い主と信じたバルティマイの信仰を称賛して癒しの業を行ったできるでしょう。いつまでも毎日、同じように物乞いの生活を願いますか。それとも目が見えるようになり新しい真理の道を歩みたいですか。